介護日記

 

 2006年10月16日

 北海道はもう秋を通り越して冬の気配さえします。道東の上士幌では、最低気温マイナス4.2度を記録したとニュースで言っていました。外気温が20度を超えれば車椅子散歩もできるのですが、最高気温14度で風があると車椅子の和子は風邪をひきそうです。車椅子を押している私は、体力を使うので暖かいのですが。

 風は冷たいけれど、ナナカマドの実が赤くなり、円山公園の紅葉も始まったので、 歩いていると目を楽しませてくれます。
 でも雪が降るまでには1ヶ月以上あるので、和子にたくさん着せて散歩を続けよう と思っています。車椅子で家の中にいると暖かいのですが、車の通らない道の屋外の空気はまた格別ですから。

 7月の『介護日記』に書いたけれど、9月和子は教え子Kのつてで、同じ療養型病院 に2度目の短期入院をしました。定期的にショートステイ(短期入所)が使えるといいのですが、「重度だから」と特別養護老人ホームも介護老人保健施設も断られるので、 2ヶ月に1度ぐらいベッドが空いたとき連絡してくれるこの病院が、 私が介護休暇をとれる唯一の機会です。Kは「先生が倒れたらたいへんですから、その間ゆっくりやす んでください」と言ってくれます。

 月曜日から金曜日まで、毎朝ヘルパーが入るけれど、週3回利用できるようになっ たデイサービスの数時間以外は全部私がやる在宅介護なので、夜中の痰の吸引もあり、疲労はやはり蓄積します。でもこうやってパソコンを打っている向こう側に和子が見えるので安心ではあります。短期入院中も、習慣でつい目がそっちに向いて、「ああ、居ないんだ」と思う時がたびたびです。

 敬老の日に町内会の役員の方が、「喜寿のお祝いをお持ちしました」と、金一封を 届けに来られました。6月に76歳になったのですが、数え歳でいうと喜寿だという認識は全く無かったので、少しびっくりしました。 以前に比べると疲れやすくはなったし、寝不足も体に応えるようになったけれど、まだ現役で介護をしているので、歳を忘れ ていました。

 ずっと前亡くなった和子のお父さんが数えで70歳になったとき、ちょうど家族みんなで里帰りをしていました。「古稀ですか」と私が言ったら、「人生七十、古来稀なり」と 言って大笑いされたのが印象に残っています。お元気だったのですが、その数年後に癌で亡くなりました。
 和子の肉親からの音信は、この2年来すっかり途絶えました。

 私は年に一度は胃カメラと全身のCT検査をしています。胃カメラは開業した女医Mが名人で、和子は数ヶ月ごとに胃瘻のカテーテルを彼女のクリニックで胃カメラを使っ て取り替えていて、二人とも特に問題はありません。CTは私が毎月通院している手稲の総合病院で撮っています。近頃のCTの新しい機種は、数分の間に鮮明な全身の輪切り画像が撮れます。精度も上がって、見えない臓器と言われてきた膵臓も、外形だけですが鮮明に見えます。ある程度はこれで診断ができるらしく、翌月行くと画像の読影専門の放射線医師のコメントが聞けます。今年も無事クリアーできまし た。

 その病院の心臓血管の主治医は私の教え子ですが、彼の外来診療の曜日が和子がデイサービスを使えない日なので、車で一緒に連れて行きます。私のCTを撮った翌月、予約をして和子の全身のCTを撮り、脳の部分だけコピーを実費でもらいました。 和子の病気がわかって以来のCTは、全部コピーを持っています。
 和子のCTは3年振りでした。その3年前のCTと今回のを何人かの医師に見せたのですが、みな息を呑みます。私もシロウトながら、脳室が異様に拡大しているのがわかります。

 このマンションに移り住んで、来年2月で満4年になり、その間に薬疹や尿路感染で2度入院したりしたけれど、在宅で毎日見ていると、そんなに変化しているように見えません。褥そうが7月末に完治した時には、天にも上る思いでした。
 今年の北海道の8月は異常に暑く、真夏日が十数日も続いたりしたけれど、車椅子散歩や地下鉄に乗せて一緒に買い物にも行きました。
 治療法が無く、進行性の病気だとは知っていたのですが、実感としては重度なりに安定していると思っていたのです。
 その時々の表情は豊かだし、目が見えないらしいので笑顔は見せないけれど、おだやかな表情はこの何年かは変わっていないのです。

 たまたま、福島の教え子の精神科医が訪ねてくれました。CTのフィルムを見せて、「理学的検査と、本人の症状は一致しないと言うけれど・・・」と話したら、「そのとおりですね」と言いました。脳室の拡大とは、その部分の脳の実質が失われて脳脊髄液に取って替わった事ですから、ショックではあります。
 介護保険の要介護度は、介護にかかる時間から決めたもので、その方式は今でも変わっていません。2000年度からこの制度が始まって、今年で7年目だけれど、理学検査も含めて病気の程度を測るのなら、和子は要介護度8にも10にもなるんだなあと、あらぬことを考えたりします。

 何よりもうれしいのは、和子が顔色も肌の艶も、全く病人のようには見えないことです。和子は来月70歳です。古稀も去年過ぎました。ミキサー食も手間がかかるけれど、健康のもとだと思って、へこたれないでやっていこうと思っています。

 9月4日の民放ローカルニュースで、「石狩地区の公立高校を一学区に」というのを見て、愕然としました。北朝鮮が核実験をすると発表して、せっかくの特集がかすんでしまった感じがありましたが。
 少し前この学区拡大のニュースを新聞で読み、「まさか、やらないだろう」と思っていたのですが、この日のニュース特集で、3年後(今の中学1年生が高校進学する時)から実施が決まったというのです。

 北海道の公立高校の学区はいままで何回も制度が変わりました。私が新卒で浦河に赴任した1957年当時は、完全小学区だったと思います。高校受験生は普通科は地域の学校一つしか受験できなかったのです。でも高校進学率5割という時代ですし、それなりに選ばれた生徒達でした。
 担任も持ちましたが、クラスの3分の1が進学で、他の大部分は就職組でした。学校に進路指導部などはなく、就職の係の先生が就職先を探してくれて、そのあとは担任の仕事でした。
 進学組は3年の秋になると、日曜日に列車で何時間もかかる苫小牧に行って業者模試を受け、受験先を決めていました。担任の仕事は調査書を書くことだけでした。でも浪人した生徒に翌年調査書を書いた記憶はほとんどないから、受験生は学力と家の経済事情を考えて、それぞれ身の丈にあった大学に行っったのだと思います。
 担任はクラスで30人を超す就職組の世話で忙しかったので、大学受験組は自分で勉強して、自分の力だけで大学に行きました。それでも北大や教育大や、少し資力のある家庭の子は立命館大学などにも入っていました。

 2校目は美唄でした。そこも学区の中に普通科の高校は一つしかなく、工業高校と、私が赴任した家庭科・商業科・農業科の職業高校の3校でした。だから小学区とはいえ、入試前に中学段階で偏差値による輪切りが行われていたのです。

 私はその後、札幌南高に転勤しました。この時の札幌市内は総合選抜制度で、受験生は最寄りの高校で受験し、全受験生の答案を教科毎に一つの学校に集めて採点をしました。私も理科の採点に他の学校に行きました。総合選抜の委員会ができて、全教科の得点と内申で合格点に達した生徒は、自宅から最寄りの高校に割り振られました。当然各学校にピンからキリまでの生徒が入学したわけです。旧制札幌一中から変わった札幌南高も例外ではありませんでした。就職した教え子もたくさんいます。

 5年たって札幌西高に転勤した時は制度が変わっていて、市内は北学区と南学区に別れていました。札幌は膨張を続けていた時期なので、同じ北学区でも東の端から西高に通うのはたいへんで、授業で教えていた生徒に部活は何をやっていると聞いたら、「家が遠いので、通学クラブです」と笑って答えたのが印象に残っています。地下鉄はまだ無く、路面電車は殆ど廃止になって、バスだけが唯一の通学手段でした。

 札幌に20年居たので「もう一度地方に転勤を!」という校長の強い要請を受けて室蘭に単身赴任しました。和子はフルタイムの仕事を持っていたし、子どもは中学生と高校生でした。
 赴任して驚いたのは、胆振(いぶり)第一学区という、登別市から室蘭市、 それに西の端の豊浦町まで含めて広大な学区で、学区のない工業高校と商業高校は別にして、同じ学区に普通高校が7校ありました。そしてそれが見事に1番から7番まで格付けさ れていました。中学段階で偏差値に依る高校選択ができているので、一つの学校に受験生が集中することはありませんでした。

 ふと思い出したのは、宇宙飛行士の毛利さんのことです。彼は小樽市の隣の余市町の出身で、道立の余市高校から北大に進学しています。おそらく完全小学区制の時代でしょう。今は小樽市も含めて後志(しりべし)」学区で、中学から偏差値の高い子どもは、小樽市の有名受験校に通っています。毛利さんは宇宙から帰ってきて母校の小学校や中学校で講演し、宇宙と人生への夢を語ったニュースは何度か見たけれど、高校には行ってないないようです。中学区制で学区内の公立高校は見事に序列化されて、底辺校から有名大学への進学などは夢物語です。

 話が長くなったけれど、最初のニュース特集に出てきた江別市のある中学1年の生徒や教師は困惑気味でした。江別学区3校から一挙に石狩大学区36校に受験が可能になるのです。札幌市も含めて人口300万を超える中にある36校が一学区になるのです。
 「学校選択の自由」とか、「自分の個性にあった学校が選べる」などと学区拡大論者は言うけれど、知ってか知らずでか、たわごとにしか私には聞こえません。何年かしたら公立普通高校全校が序列化するのは目に見えてます。
 うちの子ども達は、自宅から近い、身の丈にあった高校を選択しました。高い通学定期代も払わないで済ませました。

 何より奇怪なのは、日本社会の構造が変化し、偏差値より実力主義に変わってきているこの時代に、学校制度だけは偏差値信仰が深まっているとしか言えない方向に動いていることです。

 かつて京都府の蜷川知事が「15の春は泣かせない」という有名な言葉を残しました。人生の進路が決められるはずもない15歳の少年たちに、彼は小学区と高校全入のために尽力したのです。

 教え子達の大部分は、子どもが大学生の年齢になりました。私たちも子育ては終わったけれど、これから親になる人と子ども達はたいへんだなああと、つくづく思います。公立の中高一貫学校もできてきました。「12の春」の子ども達に、いったい人生の何を選択させようとするのでしょうか。


和子の近影です

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 円山公園で(1)

 

 

 

 

 

  円山公園で(2)

 

 

 

 

 

 円山公園で(3)

 

 

 

 

 

      自宅にて

 

 

 

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