介護日記

 

 2006年7月11日 映画「明日の記憶」その後

 前の日記を書いてから1ヶ月余り過ぎました。
 6月23日の沖縄慰霊の日のことは前にも書いたけれど、日本軍の「組織的な戦闘」が終わった日で、そのあと終戦の日を過ぎるまで、沖縄本島や幾つかの島で指揮系統を失った日本軍が、現地人を巻き込んで死闘を続けていました。その期間に失われた命がどれほどあったか、今でもわからないのでしょう。

 去年は終戦60周年ということで、NHKも民放もたくさんの特集を組んだけれど、今年は新聞にもそんな企画は載ってないし、こうやってますます戦争の記憶は風化して行くのかなという思いがします。私も76歳になり、戦中派の私にも語り残した時間が少なくなってきたという感じがしています。

 和子の褥そうがやっと良くなってきたので、皮膚科医から和子を車椅子に移す許可ももらい、6ヶ月間休んでいたデイサービスの利用を申し込みました。エレベーターで1階下のフロアに下りるだけですから。
 しかし和子が休んでいる間に利用者が定員いっぱいにになり、週1日しか利用できないと回答がきました。入院1ヶ月と5ヶ月に及んだ完全在宅介護は、24時間和子のそばにいる安心感はあるものの、夜中の痰の吸引もあって、私の体力も少し限界に近いと思い始めていました。
 ケアマネに頼んで他の業者のデイサービスを探してもらいましたが、先方から管理者とベテランのナースが見にきてOKが取れたのに、数日後断りの電話がありました、介護のスタッフから「重度だから」と反対があって、まとまらなかったようです。
 「重度だから」こっちは利用したいのに、同じ理由で断られ、他の業者からも送迎距離の問題もあってデイサービスはここの階下の週1回しか目算が立たず、方向を変えて、かつて小樽で利用していたショートステイ(短期入所)を探すことに しました。しかし小樽時代と違って和子は痰の吸引と胃瘻からの栄養注入という医療行為が必用になったので、夜間ナースの当直がある老健施設しか利用できず、これもなかなか見つかりません。

 思い余って考えているうちに、かつての札幌西高の教え子Kを思い出しました。彼が亡くなったお父さんのあとを継いで医療法人の理事長をしていることを知っていたので、電話で直接話しました。彼は4年前に出した私の本、『和子 アルツハイマー病の妻と生きる』を買って読んでくれていました。教え子と言っても卒業後25年経っているし、授業でたった1年間教えただけです。
 でも彼はちゃんと覚えていてくれて、その法人の療養型の病院に2週間余り入院することになり、3日に1度ぐらい洗濯物の交換に行っています。Kからは「先生が倒れては元も子もないので、ゆっくり休んでください」と言われています。

 病院の隣にある老健施設も検討してくれたのですが、「重度で医療関与度が強い」ということで療養型病院への短期入院という形になりました。老健は病院と在宅の間の中間施設という扱いなので、医療スタッフの定員も少ないのです。 病院に入院なので、定期的にとはいかないけれど、少しゆっくり休めます。

 会期末国会のどさくさまぎれに、たくさんの重要法案がろくな審議もされないまま、 国会を通過しました。医療制度改革法案もその一つです。先週の日曜日の昼間、札幌の民放局(uhb:北海道文化放送)が、この問題を取り上げた1時間枠の生番組を放送しました。「どうする医療・介護難民」というタイトルで、コメンテーターが数人参加して、北海道が直面している問題を討論しました。小沢遼子という評論家が、「難民ではなくて棄民だ」と言いいました。
 膨大な赤字が増えている医療・介護財政を立て直すための一つとして、厚生労働省は6年後に向け全国の療養型病床を、今の38万床から15万床に削減する計画です。それを見越した削減がすで始まっていて、この春根室市の療養型病院が廃業しました。59人の入院患者のうち15人が行き場が無くて自宅に戻され、そのうちの5人が3ヶ月の間に亡くなったというのです。厚生労働省の若いお役人が、「切り捨てではなく、ケア付き高齢者住宅などへの移行を考えて・・・」などと言っていたけれど、もともと医療費削減のための法案で、「ホテルコストも入れて、月十数万円」を払える人がどれだけいるかのか、わが家でも無理です。
 何より財務省から首根っこを押さえられ、厚生労働省が完全に当事者能力が無くなっているのが見え見えでした。たまたま和子が、その療養型病院に短期入院する前の日だったので、他人事ではありませんでした。録画してあとからゆっくり見ました。
 和子が痰がからむと、すぐ取ってやらなければならず、見たい番組は全部録画です。

 映画「明日の記憶」に関わって取材を受けたのに、映画を観に行く時間が取れないでいたのが、上映期間が終わる直前になってやっと観に行くことができました。

 前号で書いた「告知」の問題は、主人公が広告マンの管理職男性で職を失うという設定なので、「告知」は避けて通れないにしても、映画「ユキエ」のように時間をかけてゆっくり、「告知」の条件を作っていくというソフト・ランディングの方法があるのに、と思いました。
 若い主治医から「冷たく事務的に病名を告げられ」、絶望して病院の屋上から飛び降り自殺を図る。医師と妻が必死で追いかけてきて、医師が「実は私の父もアルツハイマーなんです」「個人差はありますが、治療の方法はまだあるはずだから、決して諦めてはいけない、一緒に頑張っていきましょう」と言います。
 でも治療法などまだ無いし、実際にその父親の介護をしているとは考えられない医師の、「治療の方法はまだあるはずだから」というのは説得力に欠けます。

 そして奇妙に教科書どおりに進行するこの病気は、救いようのない混乱期が必ずあり、現実はもっともっと怖ろしいのです。でもその混乱期の中でも和子は笑顔もあったし、無神経な医師が和子の居る前で、「この病気はねえ、人格が崩壊するんだよ」と言ったのを私は許してはいません。小樽市と札幌市の境界にある大きな脳神経外科病院でした。年配の副院長でした。
 東京の別の病院で、若いMSW(医療ソーシャルワーカー)が、「記憶を無くして も感情は残ります。くれぐれも傷つけないように」と言ったのと比べると、人格が崩壊しているのは、その医師自身だと思うし、カウンセラーが専門職として配置されているアメリカだったら、そんな医師こそカウンセリングが必用な対象とされるのだろうと思います。

 2001年3月に書いた『介護日記』の一部を採録します。

 先月の朝日新聞に、《居場所なき『痴ほう難民』》という特集記事が載りました。  《・・高齢者痴呆介護研究・研修センター研究主幹の永田久美子さんは「痴ほう難民の対策を」と呼びかける。在宅サービスの量も質も、ホームも全く足りない中で家族が困り果て、難民のようになって精神病院にたどりつく。「痴ほう対策の遅れの犠牲者です。不適切な医療やケア、環境で、さらに症状が悪化する作られた痴ほう障害が100%といっていい」精神科医療も高齢者福祉も、どちらも対策が中ぶらりん。その谷間に痴ほうのお年寄りが落ちている。・・》

 もう5年も前の『介護日記』です。介護保険制度はその前年から始まっていました。現在はもっと悪化しています。混乱期の患者が精神科病棟に入れられ、強い抗精神薬で眠らされている(落とされている)状況は今も変わりません。薬で眠らされているから、病室に鉄格子などいらないのです。

 原作がフィクションだからといって、今や社会問題化している若年性アルツハイマーを扱ったものとしては、リアリティーに欠けるという感じがしました。

 樋口可南子の好演もあって暖かい余韻は残ったけれど、現実は決して、「私がいるから大丈夫」ではないのです。

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