介護日記

 

 2006年2月5日

 和子が昨日退院しました。

 札幌は雪が吹き荒れて、大変な日でした。千歳空港が飛行機の運行を開始したのは夜の10時過ぎ、高速道路もほとんど閉鎖で、道内の交通は麻痺状態でした。
 そんな日の自家用車での退院はたいへんだったけれど、幹線道路は何とか通れたので、往復3時間かけて、何とか無事帰宅できました。
 救急車で入院したのが1月4日だったから、ちょうど1ヶ月でした。去年の夏は3ヶ月だったけれど、初夏から夏にかけてでした。私の持病の異型狭心症は夏はほとんど心配なかったので毎日通うのも平気でしたが、真冬の1ヶ月毎日通うのは厳しい条件で、帰宅後の心臓のアタックが2度ありました。ニトロを舐めて治まったので無事でしたが。病院の和子の主治医に話したら、「寒冷曝露ですね」と言われました。そんな言葉も初めて知りました。

 さて和子の救急車入院は尿路感染症でしたが、腎盂炎も起こしていて、危険な状態でした。元々の病気が重度なので、体力も落ちていると思われていたので緊張しましたが、基礎体力はあったらしく、2週間でほぼ退院できる状態になりました。しかし入院前からあった褥そうが悪化していて、外科病棟に移って小手術をしました。褥そう内部がポケット状に拡がり、感染症にかかれば命にかかわることもあると言われたことは先回の『介護日記』に書きました。若年性のアルツハイマー病の方は、ほとんど例外なく感染症で亡くなっています。
 そんなこともあって安心できる状態ではなかったのですが、褥そうも肉芽(にくげ)が順調に盛り上がってきて、無事退院まで漕ぎ付けました。

 去年の3ヶ月入院は抗てんかん薬による薬疹で、その回復期に自己免疫疾患の「線状 Iga 水疱症疑い」ということになって、大量のステロイド投与で、やっ と切り 抜けたのでした。 去年の5月から今年の2月まで、10ヶ月足らずの間に4ヶ月も入院したのだから、半分近く入院生活したことになります。

 アルツハイマー発症から推定20年を超したのだから、何が起きても不思議ではないのかも知れないけれど、また雪が融けたら社会復帰ができます。一つ一つクリアしていけばいいのだと、いますっかり普通の顔になった和子を見ていて思います。

 今年はモーツアルト・イヤーです。モーツアルト生誕250年記念の催しが世界各地で開かれるようです。彼の誕生日の1月27日を和子は病院で迎えました。
 和子が学生時代に使った、モーツアルト作曲「戴冠ミサ曲」の楽譜が手元にあります。レオポルト2世の戴冠式の記念ミサのために作曲され、1779年4月ザルツブルグ大聖堂で初演されたと、記録にあります。楽譜の中身はラテン語ですが、表紙と見開きは「戴冠彌撒曲」と印刷されていて、酸化して黄ばんだ中身と共に、時代の古さを思わされます。その楽譜の表紙裏の見返しに彼女の字で

「貴方の生誕を祝って、わたしたちは歌いました 1956,11,4」

と書いてあります。楽譜に挟んであったプログラムには、

  『讃美礼拝 モーツアルト生誕200年を記念して
     場所  仙台南六軒丁教会
     時    1956年11月4日(日)午後4時
     合唱  南六軒丁教会クワイア
          仙台クリスチャン スチュ−デント センター』

とあり、アルトソロに高橋和子の名があります。

 ちょうど半世紀前のことで、もちろん私たちが出会う6年余り前のことだけど、かつてこの楽譜を見た教え子の臨床心理士が、「奥様はモーツアルトに手紙を書く人だったのですね」と言ったのが忘れられません。

 私たちが出会った高校の音楽室で、和子が語ったモーツアルトへの思い入れの深さを、いま私はひとりで思い出しています。

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