介護日記

 

 2006年1月8日 新・病床日記 その1

 新しい年が明けました。
 札幌も年末からずっと寒気団に包まれ、昼間もずっと氷点下で、降雪量も多いのに、ほとんど融けないので厳冬期2月末頃の感じです。北陸から東北にかけての豪雪といい、地球は病んでいるなあと実感します。

 クリスマスに手稲の教会のクリスマス・コンサートで、ヘンデルの『メサイア』抜粋の合唱に加わりました。教え子が行っている教会の『メサイア』の合唱に誘われ、これで3年目です。
 冬の夜道を20キロ離れた教会に和子を連れて参加するのはたいへんだったけれど、本番はやはり感動的な夜でした。和子は聴衆の中で、教会員のナースに付き添われて、ぱっちり目を開けて聴いていたそうです。彼女は大学生時代、仙台で『メサイア』のソリストをやっています。

 そのあと年末に私が風邪をひき、デイサービスが休みの年末年始の数日間食事作りと和子のミキサー食作り以外は何もせず、二人で寝正月でした。

 1月初めに遅れていた『介護日記』をお送りするつもりで書いていたのですが、4日、和子の体調に異変が起こりました。

 朝、前日に食べたものを大量に吐き、顔は真っ白で熱が9度3分あり、パルスオキシメーターでは脈拍も酸素飽和度も測定不能で、尿が真っ黒でした。すぐ訪問ナースが来てくれて、ここの院長の指示で点滴をしながら救急車を呼び、夏に入院した札幌徳洲会病院に緊急入院しました。雪で車線が狭くなった渋滞した道路をサイレンを鳴らしながら40分かかって着きました。救急車の中のモニターに途中から現れた脈拍は133という普通の倍近い値で、危険な症状だったと怖ろしくなりました。

 病院の主治医の『入院診療計画書』には「病名:尿路感染症・アルツハイマー型痴呆、症状:高熱・脱水・低血圧」とありました。病室に落ち着いて4時頃売店でパンを買って食べたのがその日最初の私の食事でした。若年性アルツハイマー病の患者のほとんどが感染症で亡くなっているし、緊張しました。

 それから毎日、また地下鉄で病院通いです。今日で5日目、腎盂炎にもかかっていることがわかり、その治療も続いているけれど、状態は良くなって胃瘻からのミキサー食も始まっているので、回復に向かうでしょう。『入院診療計画書』にある2週間で済むかわからないけれど、また一つ山を越えました。

 以下に年末に書き終えていた『介護日記』をそのまま掲載します。


 2005年は私たちにとって、とてもたいへんな年でした。遅い春の到来を待ちかねて車椅子散歩を始めて間もなく、和子に眼振と首振りが起き始め、抗てんかん薬を投与して、それによる薬疹で全身に発疹が出ました。訪問診療の皮膚科の医師から、とても在宅治療は無理だといわれ、5月半ばに入院しました。治療の結果薬疹は治まったのですが、その薬疹が惹起したのか、自己免疫疾患の水疱症が出て、皮膚科の医師も初めての経験だというし、膠原病になるおそれもあり緊張しましたが、ステロイドを限度いっぱいまで使って何とか切り抜けました。
 8月の退院までの3ヶ月間のことは「病床日記」に4回にわたって詳しく書きました。もともとの脳の病気が重度なので、何が起きても不思議ではなかったのですが、今は血色もいいし、表情も豊かです。初めて会う人は病人に見えない和子が言葉を失ってしまっていることが不思議なようです。

 いろいろな感覚を無くしてしまったけれど、音楽には反応します。退院後も何回かコンサートに連れて行きました。音楽、特に歌は神様が彼女に残してくれた贈り物なのでしょう。

 私も75歳になりました。「老々介護」という実感は全くないのですが、体力的にはきつくなりました。平日の朝は訪問介護か訪問看護があるので、排泄の始末や着替えはやってくれるけれど、土日は終日私の領分です。
 特別養護老人ホームに居たとき、ケアワーカーのかなりの人が生ゴムのコルセットを腰に巻いていたけれど、重度の患者の介護の仕事はほとんどが中腰です。土日は全部私がやるので腰にきます。私もコルセットを買い、週に一度は近くの鍼灸治療院に通っています。
 和子の車椅子を押して、デイサービスから帰った後も休日も、毎日1時間余りも歩き回るのが日課でした。普通の速度で歩くので、私の手から体全体に負荷をかけて毎回4キロぐらいは歩いたでしょう。それが去年は、地下鉄で病院を往復しただけでした。山に行く機会も作れませんでした。運動不足のため、体の特定部位を使う介護という肉体労働が身に応えます。今年は雪が融けたら、意識的に体を鍛えることを考えなければと思っています。

 前回書きましたが、和子は入院中腰の筋肉がすっかり落ちました。歩けなくなってから3年たつので足の筋肉が落ちるのは仕方ないのですが、3ヶ月の入院で、腰の筋肉がすっかり落ちました。毎日通って車椅子散歩をさせてはいたのですが、自宅にいる時のようにはいきませんでした。腰の骨(腸骨)の回りの筋肉が落ち、そこに褥そうができました。左右にできたのですが、右側はほとんど完治し、左側が深くくぼんでいます。表面の壊死した部分を皮膚科の医師が取り除いてくれて、いまは薬を毎日取り替えながら肉芽が盛り上がるのを待っているところです。腰を動かすと肉芽の再生が遅くなるということで、デイサービスの正月休みの間はベッドで過ごすように言われています。屋外は12月からもう厳冬期なみです。雪解けを待つしかありません。

 和子は夜中に痰がからむので、その度に起きて痰の吸引をしなければならず、寝不足になって昼間彼女がデイサービスに行っている間に仮眠を取ります。食事を作ってミキサーにかけて裏ごしにかけたり、忙しくてこの頃は時間がたつのが早く、新聞を読むのを忘れている日もあります。夜10時過ぎ、自分の夕食を取りながら民放のニュースを見たり、インターネットでニュースも見るので、世の中で起きている事はおおよそわかるのですが。

 さて、12月8日という忘れられない日に『介護日記』を書こうと思っていましたが、時間がとれず書けないままでした。
 64年前のこの日、日本海軍の戦闘機がハワイ真珠湾のアメリカ艦隊に奇襲攻撃をかけ、泥沼の太平洋戦争にのめり込んで行った日です。その時の総理大臣が東条英機、御前会議で裁可を下したのが昭和天皇です。
 駐米野村大使に宣戦布告の電報が届くのが遅れたというトラブルもあり、「奇襲攻撃」 というルール違反で、「リメンバー・パールハーバー」という怨念を アメリカ国民の間に残しました。この夏ヒロシマを訪れた原爆投下機の乗り組員の一人が、「私は間違ったことをしたとは思っていない。日本が先にパールハーバーの奇襲をやったのだから」と原爆慰霊碑のそばで語っていたのが、重く印象に残りました。しかし、いずれにしても国力が日本の十倍以上と言われていたアメリカに戦争を仕掛け、無謀で愚劣な戦争の泥沼に落ち込んでいった、その日です。

 去年は戦後60年ということで、マスコミもいろいろ取り上げたけれど、12月8日のことは余り多くは触れられないままでした。1941年、当時私は11歳、小学校5年生でした。1931年の柳条湖事件以来1945年にアジア太平洋戦争が終わるまでの十五年戦争の間に、日本が起こした侵略戦争の為に失われた人命の犠牲はアジアを中心として約2000万人、日本人約300万人です。

 何よりも日本がやらなければならないのは、戦争の後始末です。講和条約で中国や韓国が賠償請求権を放棄したからと言って、被害を受けた個人の恨みが消えた訳ではないでしょう。日本国内でも南海の島々やビルマ戦線で餓死同然に死んだ数十万の遺骨は放置されたままです。ドイツはナチス政権時代の被害者に、自国民を含めて今でも個人補償を続けています。
 昭和天皇は自らの戦争責任に口を閉ざしたままで亡くなったけれど、息子の現天皇夫妻が去年慰霊のためサイパン島を訪れたのは、昭和天皇がやり残したことという思いがあったからでしょう。彼は私より3歳若く、終戦時12歳ぐらいで、自ら戦争責任を負う世代ではないのですが。

 被害を受けたアジアの国の人々の心に思いを寄せず、靖国参拝を言い続ける小泉氏に、日本の有権者の多数が政権をゆだねたのは、怖ろしいことだと私は思わずにはいられません。


和子の近影です

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散歩から帰って

 

 

 

 

 

美術館からの帰り。西の山に日が落ちる。

 

 

 

 

 

「もいわ山麓コンサート」で

 

 

 

 

 

 

 

フクラギ(ブリの幼魚)を抱いて。お刺身を作ります。

 

 

 

 

 

 

 

マンション裏口「進化した車椅子」に乗って

 

 

 

 

 

 

秋。円山公園で。

 

 

 

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