介護日記

 

 2005年11月3日 文化の日

 今日は文化の日です。この日は戦前は明治節と呼ばれ、国民学校生徒は学校に集められ、明治天皇の誕生日を祝うセレモニーがありました。30年以上前に亡くなった、写真でしか知らない2代前の天皇の誕生日といっても「小国民」にはピンとこなくて、日々戦時色で覆われた日々の一日でした。

 戦後この日が文化の日と名を変え、秋のさわやかな一日、文化行事にふさわしい日になったのはいいのだけれど、「叙勲の日」という戦前と変わらぬ形が残ったまま60年たったのが気になって仕方ありません。天皇は敗戦によって人間天皇になり、エライ高貴な人ではなく、「国民統合の象徴」になった筈なのに、この叙勲に選ばれた人たちが随喜の涙を流して「生涯最大の栄誉」などというのを聞くと、戦前の亡霊が生きているように思えてなりません。以前は圧倒的に公務員が多かったのが、半分ぐらいが民間人になったり、勲一等とかいう等級が無くなるなど多少の改善点は見られるにせよ、まだ「半数が公務員OB」です。
 新聞で「叙勲に揺れる“不祥事官庁”」だとか、「警察庁・社会保険庁“世間”を意識して推薦を自粛」などという記事を見ると、制度そのものをやめてしまう方が良いのではないかと私には思えます。

 事実、「一切の栄誉は受けない」と言って辞退する作家や芸術家も居るのを見ると、叱られるかもしれないけれど「栄誉に群がる人々」とも私には思えてならないのです。
 教員の世界でいえば、出世街道を上り詰めた少数の校長の一部が叙勲され、おまけにその叙勲の祝賀会まで大人数を集めて開かれるのです。私には残念ながら北海道の現状は、こういう人たちは現場実践から足を洗って出世街道を上り詰めた人としか思えないので、一切参加したことはないのですが。

 かつて勤めた札幌西高では、「上を向いて、歩こう」という生徒の戯れ歌がはやったことがあります。日航機事故で亡くなった坂本九ちゃんには申し訳ないけれど、事故のずっと前のことです。生徒達は「まっすぐ(生徒のほうを)向いている」教師と、「上を向いている教師」を見分けていたのです。

 むかし『名もなく貧しく美しく』という美しい映画があったけれど、本当に名も知られず、私財や労力を惜しまず社会の底辺の人々のために尽くしている数知れない人々がいるのを私はたくさん知っています。その、名もない何十万の中からどうやって数千人の叙勲者を選ぶのでしょう。

 大江健三郎がノーベル賞をもらったとき、政府があわてて文化勲章を出そうとしたら、彼は「国からの栄誉は受けない」と断ったという記憶があります。でも彼はその後フランス政府から、レジオン・ド=ヌール勲章を受けています。しかしこの賞だって、1802年権力の頂点に上り詰めたナポレオン一世が制定したものです。日本政府の勲章を受け取らなかった彼が、どうしてフランス政府ならいいのか?と、その時不思議に思ったものです。

 ノーベル賞はダイナマイトの発明で大儲けしたノーベルが、自分の発明が戦争で殺傷兵器として使われたことを悔いて、膨大な遺産を母国スウェーデン政府に託たもので、スウェーデン政府が代行をしているのに過ぎないのです。

 スポーツや音楽コンクールは、選考基準に議論はあるにせよ実力の世界です。何十万人いるかわからない真の功労者の中から、何の基準でか数千人が選ばれ、その代表が文化勲章を天皇から授与され、「生涯最大の栄誉の日」で「感涙おくおく能(あた)わず」という感じになるのが不思議です。
 憲法で万民平等をうたったのだから、こんな明治の亡霊のような制度は廃止するのがいいと私は思うのです。

 さて、何かと忙しく、10月は『介護日記』を書けないままでした。 その間に北海道の短い秋はあっという間に過ぎました。車のタイヤも冬用に替えました。11月になるといつ雪が降るかわからないのです。
 ナナカマドの実が真っ赤に色づき始め、雪虫も舞いました。北大のイチョウ並木もすっかり黄色に色づき、観光客が楽しんでいるとニュースで報じられています。大学にいる頃は喰うのに手一杯で心に余裕がなかったからか、あまり印象に残っていないのですが。

 それでも残り少ない小春日和の夕方、和子の車椅子を押して円山公園に行きました。広い通りから一本外れた、車の少ない中通りの車道を歩きました。前にも書いたけれど、歩道は車椅子にとってはバリアそのもで、途方もなく歩きにくいのです。西の山の端に落ちようとする夕日が和子の顔に当たって、輝いているようでした。
 公園の木の緑も赤や黄に染まり始めていました。原生林のままなので、巨大な木もあり、それがすっかり黄色や赤に色づき始めてきれいでした。去年9月の台風でなぎ倒された跡もわからなくなり、自然の再生力の強さを実感します。暖かい日曜日の夕方なのに、乳母車を押した母子が二組と、ベンチで本を読んでいる男性が一人居ただけで、、地下鉄駅から5分で行ける公園なのに、静かなもったいないような空間でした。

 その前の週、知事公館の一隅にある道立三岸好太郎美術館に和子の車椅子を押してて行きました。平日の夕方、デイサービスに迎えに行って、4時から閉館の5時までいました。夭折した三岸好太郎の妻・三岸節子の特別展でした。
 平日のせいか客はまばらで、こぢんまりとした静かな空間でゆっくり過ごせました。入口のガラス越しに受付の若い女性が車椅子の和子を見て、すっと立ってきて入口のドアを開けてくれました。どうしてか、二重ドアの外側は自動ではないのです。1階のフロアをゆっくり見て歩いて、受付横のエレベーターのそばまで行くと、彼女がまたすっと立ってきてボタンを押してくれます。

 愛知県起(おこし)町=現一宮市=の織物工場の経営者の娘に生まれた節子が、東京の女子美術学校を卒業した頃、実家の織物工場が倒産して、好太郎との新婚生活は極貧の状態から始まったそうです。31歳で夭折した好太郎の3倍の94歳まで生きた節子の画業が、一宮市三岸節子記念美術館から出展されて特別展として開かれていたのです。
 岸田劉生の「麗子像」を思い出させる「自画像」と、60歳を過ぎてから20年余りヨーロッパに暮らした間に描いた「ヴェネチアの家」が印象に残り、絵はがきを買いました。病気がわかった和子を連れて行ったイタリア旅行を思い出しました。退職してから4回行った外国旅行で、イタリアだけはパックツアーでした。でもフリータイムが多く、和子の手を引いて観光客の居ないベネツィアの小運河沿いの狭い小路を歩いたのです。
 「どんどん進みます。覚悟をして下さい」と東京の医師に言われてから10年余り、生き急ぐように旅をした日々を思いだします。

 和子は先週、教え子の女医Mが開業したクリニックで胃カメラを飲みました。ずっと前からそうなのですが、高2の時からわが家に来ていた彼女の胃カメラは、何の抵抗もなくすっと入ります。もうMが誰だかはわからないのかも知れないけれど、安心して任せている状態は変わりません。ここ3年の嚥下障害・胃瘻造設と、めまぐるしく変わった状態の中で胃カメラの機会が無く、3年振りだったけれど、きれいな胃で問題なく安心しました。
 その1週間前の私の胃カメラでは、ピロリ菌が見つかりました。抗生物質を飲んで治療を始めています。
 市の保健所がやっている大腸癌検診の潜血反応は二人ともマイナスでした。この検査法は便の検体を届けるだけで簡単ですが、胃バリュウムと同じく、病変が見逃されることも多いらしいけれど、ちょっと安心ではあります。

 三ヶ月の入院から退院したのは皮膚疾患が完治したのではなく、このマンションのデイサービスに定期的に往診してくれる皮膚科医に転医したのですが、順調に良くなっていたのに、ここしばらく足踏み状態です。すこしずつ減らしてきたステロイド剤も減らせないで、新しい褥創ができたりして、対応に苦労しています。本人は元気で顔色もいいのですが。

 「恵庭OL殺人事件」というのがありました。5年前の3月、千歳市の隣の恵庭市の雪に覆われた農道で、苫小牧市の24歳のOLの黒焦げ死体が見つかったという痛ましい事件です。翌月同僚だった30歳の女性が逮捕され、一審の札幌地裁は状況証拠だけで有罪と認定し、懲役16年の判決を言い渡しました。その控訴審判決が9月30日札幌高裁で言い渡されたのです。控訴棄却の判決でした。
 控訴審では東京で新しく大型の弁護団が結成され、被告が死亡推定時刻の少し前ガソリンスタンドで給油していたビデオテープなどの証拠が出されたのですが、判決は「被告が体の大きい被害者を殺して現場に運ぶことが不可能とは言えない」とか、「現場で火をつけてからスタンドへ行って給油するのが不可能とは言えない」という趣旨の状況証拠だけに基づく判決でした。
 私は見なかったけれど、札幌の民放局のニュースで、廷内から漏れてくる被告の号泣が流されたそうです。
 弁護団による東京の判決報告集会に参加した横浜の教え子の話では、判決のあと、O被告が、「私もう子どもは生めませんね」とつぶやいたそうです。可哀そうで涙が出そうになりました。

 判決を見た瞬間私は「松川事件」を思い出しました。
 1949年8月17日福島県松川町を通過中だった東北本線上り貨物列車が脱線転覆して機関士が死亡した事件です。線路を枕木に固定する犬釘が外されていた、明らかな人為的事件だったけれど、当時首切り反対闘争中だった東芝松川工場の労働組合員など20人が逮捕され強引な自白強要の末、1951年12月第一審の福島地裁は検察側の主張をほぼ認めた形で5人を「死刑」、5人を「無期懲役」、10人を有期の懲役とし、全員有罪の判決を下したのです。

 広津和郎ら文学者や広範な救援活動と大弁護団が結成され、12年の歳月をかけ、1963年になって全員無罪の判決をかちとったのです。
 戦後史に残る大冤罪事件です。朝鮮戦争の前夜で物情騒然、松本清張は後に『日本の黒い霧』で、アメリカ占領軍による謀略を匂わせる記述をしていたと記憶していますが、真相は今も闇の中です。

 後に札幌で起きた白鳥事件の最高裁判決は、「疑わしきは被告人の利益に」という有名な『白鳥決定』を出しています。1975年です。

 『白鳥決定』から満30年です。新刑事訴訟法は、状況証拠だけによる判決を戒めているはずなのに、今度の判決はどういうことでしょう。

 この判決の数日前の9月21日、布川(ふかわ)事件の再審決定が出されたばかりです。殺人事件の無期懲役で満期仮釈放された二人に対する最高裁の再審決定です。再審でいずれ無実が明らかにされるにせよ、1967年以来の38年間の二人が失った人生はは取り戻しようもないでしょう。

 新小泉内閣の法務大臣が「私は死刑執行のサインをしない」という発言をしたことで物議をかもしているけれど、僧侶出身の彼がこういう発言をしているのに、かつての森山法相・南野法相は何人もの死刑執行にサインをしています。森山氏は子を持つ母親であり、南野氏は何と人の命を救うナース出身です。

 トルコのEU加盟申請に、この国の死刑制度が問題になっています。今や死刑廃止はヨーロッパ先進国を初めとする「民主主義国家」のメルクマール(尺度)です。
 先進国と言われる国で死刑制度を維持しているのは、日本とアメリカ(の一部の州)だけです。人間の歴史は「誤審」の歴史でもあります。
 日本でも戦後再審決定で、何人もの死刑囚に無罪判決が出ています。もしそのまま死刑が執行されていたとらと思うとゾッとします。

 病気の進行と闘いながら懸命に生きている和子を見ていると、「命の重さ」を改めて思います。

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