介護日記

 

 2005年9月22日

 1ヶ月余り書かない間に、北海道は急速に秋の気配です。大雪山に初冠雪があり、道東の朝の最低気温は10度を切っています。

 和子が3ヶ月にも及ぶ入院生活から自宅に戻って、ちょうど1ヶ月たちます。退院してから訪問診療の皮膚科医に治療を受けていますが、皮膚の症状も治まり、ステロイド剤の使用も減ってきています。あと一息です。それにしても自己免疫疾患とは怖ろしい病気になったと思います。シャンソン歌手の岸洋子もこの自己免疫疾患の膠原病で亡くなっています。

 和子は重度のアルツハイマー病をかかえながら、それも明らかに進行しているのに、面倒な皮膚病にかかったけれど、無事“生還”を遂げたので、不平は言いません。我慢強かった和子もたぶんそう思っているでしょう。
 手と足の爪が全部段差がついて、新しい爪になるようです。段差の部分は生え際から3分の1の長さまできているので、もう2ヶ月もすれば全部新しい爪に生え替わるでしょう。

 デイサービスの利用も始まり、天気の良い日は車椅子散歩も再開して、少しずつ社会復帰を始めています。しかし、大好きな夏を病院で過ごしたので、車椅子散歩もあと2ヶ月できるかどうか。和子は体温調節機能が低下しているので、寒くなったら外出できません。熱でも出したら危険です。この病気の患者がほとんど感染症で10年そこそこで亡くなっているのに、和子は発病後20年近く生きてきました。

 東京の病院で、「中期症状です。どんどん進みます。覚悟してください」と言われて、大脳の萎縮がすっかり進んだCT写真を見せられたのは12年前です。こっちに戻ってから教え子の女医の病院でCTを撮り健康な脳と比べて見せてもらったら、健康な脳がなだらかな海岸線なのに和子の脳はまるで三陸リアス式海岸のようでした。

 あの頃は普通に会話ができて、外国旅行もしました。飛行機に乗るのが不安になるらしいとわかって、そのあとは列車や電車や路線バスを乗り継いで国内旅行を何度もしました。私も、浮かぶ筈のない巨大な物体が、主としてロケットの原理で飛ぶのに乗るのは好きではありません。レールや道路の振動が直接伝わってくる乗り物が安心なので、和子の不安感がよくわかります。

 小樽に住んでいたので、山坂の多い道を歌を歌いながら、夏も冬も歩きました。たくさんの日本歌曲や、その頃まだ記憶に残っていたドイツ語のリートや、イタリア語のカンツォーネも。記憶が駄目になると、幼ながえりをして童謡などだけが残るとよく言われるけれど、和子の場合は違いました。青春期から大人になって自分で覚えた歌が、どんどん口をついて出ました。

 3年前の脳硬膜下血腫の手術以後、状態が急変しました。嚥下障害が起き、医療施設でない特別養護老人ホームに戻ることを拒否され、縁があってこの札幌のマンションに移り住んで2年半経ちます。

 視覚が無くなったらしいと判ったのはその頃でした。車椅子を押して歩いて行ける道立近代美術館に行って、彼女がかつて好きだった絵の前に立っても、絵を見ていないことが判りました。痛覚が無くなっているらしいと判ったのは、入院の少し前、小樽の歯医者さんが入れ歯を入れるため、ぐらぐらになった歯を抜きに来てくれたときに判りました。そして今度の入院の原因になった薬疹のアレルギーで痒覚も無くなっていることがはっきりしました。考えて見れば車椅子に移すとき足や手を何かにぶつけて、私が「痛いでしょう!」と叱られたのもずいぶん前のことです。言葉を無くしてからも3年ぐらい経つけれど、うっかり私が何かにぶつけても、嫌な顔もしなくなったのに気づきました。それからは、たぶん骨が折れても痛いとは言わない彼女を扱うのに慎重になりました。病院にいる間に骨密度を測定してもらい、A判定が出たときは驚いたけれど正直ホッとしました。「春から太陽にほとんど当たってないのです」と私が話したら、主治医から「太陽より栄養の問題です」と言われて、胸をなで下ろしたことも書きました。

 今年は冬が長く、5月末の入院前までには、まだ外を散歩するには寒かったのです。遅かった春を取り返すように、暑い夏の日が続きました。病院は古い建物で、地下・1・2階の診察・検査のフロアしか冷房が無く、最上階の6階だった和子の病室は、吹き抜ける風だけの自然冷房だけでした。
 退院して毎日一緒に過ごしていると、触覚ももちろん無くしているだろうと気づきました。去年彼女を車に乗せて連れて行った自動車会社の人が和子を見て、「奥さんは植物状態なんですか」と聞かれてびっくりしたことがあります。そんなことは全くなく、痰の吸引の時などは露骨に嫌な顔をするし、吸飲のチューブがうまく気管に入ったときは、体中をよじって涙をいっぱい出します。でもそのあとは気持ち良さそうに眠ります。

 先日、南区の藻岩山麓にある北海道循環器病院で開かれた「もいわ山麓コンサート」に行きました。春と秋の年2回の土曜日の午後、病院1階ロビーで開かれているコンサートで、この秋が18回目でした。今年で9年目ということになります。車で10分ぐらいで行けるのに知らなくて、この春初めて行きました。札幌も新人演奏家の供給過剰らしく、美術館や市役所ロビーでやる無料コンサートは、そんな新人達がよく演奏をします。ほどほどの演奏を聴かせてくれるので、機会があれば和子を連れて行くのですが、この「もいわ山麓コンサート」は違います。今回の秋のコンサートは、ボストン交響楽団の59歳のヴィオラ奏者、札幌交響楽団を今年定年退職したクラリネット奏者、それに東京芸大卒業で札幌教育大や大谷短大音楽科の講師をしているピアニストという実力派揃いで、モーツアルトの「ケーゲルシュタット・トリオ」やブルッフの3重奏曲に、「浜辺の歌」というおまけが付いていました。1時間少しというミニコンサートだけど、入場料は500円です。十数人の入院患者を入れて100人少しの聴衆でした。
 駐車場が遠いので、小雨の中で和子を降ろすために病院の職員を呼びに行ったら傘を持って2人出てきてくれて、私が駐車場に車を置いて戻ったら、入院患者10数人の車椅子の列の最前列に車椅子の和子と横に私の席も取っておいてくれて、職員が待っていてくれました。横に途中でも抜け出せるスペースが取ってあって、ナースも待機しているようでした。
 主催:もいわ山麓コンサート実行委員会、後援:北海道循環器病院とあって、出演者がボランテイアなのかどうか判らないけれど、もったいないようなコンサートでした。

 プログラムの裏表紙に、この病院と同じ法人が経営する老健施設で開かれる講演会の案内が載っていました。演題が「ボケない生き方教えます〜痴呆は心の生活習慣病」とあって、講演者がどんな人なのか判らないけれど、公式には使わないことになっている筈の用語が括弧書きもなく乱暴に使われていたり、「心の生活習慣病」などと断定したり、これは違うと私は思いました。アルツハイマー病が「心の生活習慣病」なら、和子は発病するような人では無かったのです。
 結婚以来フルタイムで音楽教師をやり、3人の子育てと家事を私と一緒にこなし、時間があると本を読み文章を書き、美術館やコンサートや演劇を見に行きました。裁縫も得意で、ミシンを買う前は子ども達の服も手で縫っていました。たまには家族で山に登り、留学生も何組か受け入れていました。
 「人生を駆け抜けた末」発病したという実感が私には強いのです。
 講演者はたぶん医者なのだと思うけれど、心がけだけで病気にかからないのなら、心臓病も、癌も、糖尿病も、リュウマチも、世の中にこんなに多くは無い筈です。体質が遺伝子がらみだと判っているから、癌検診なのどでは必ず血縁者の癌のことを聞かれるのです。

 総選挙は途方もない結果に終わりました。自民党が大勝に舞い上がった1週間後の9月18日は、柳条湖事件から満74年の日です。満州事変と言われたこの事件を、私はもちろん「中国軍が仕掛けた鉄道爆破事件」と国民学校で習いました。これが関東軍が仕組んだ謀略事件だったと知ったのは、1945年大戦が終わってからです。この事件以来、日本は急速に侵略戦争の泥沼にはまり込んで行きました。この事件は私が1歳の時で太平洋戦争が終わったのが15歳だったから、私はこの15年戦争と言われた日本の歴史の申し子だったような気さえします。この15年にも及ぶ戦乱で亡くなった日本人は300万人、日本軍のために犠牲になったアジアを中心とする外国人は2000万人と言われています。

 選挙が終わった途端、憲法改正論議が声高に言われ始めました。中曽根内閣以来、そんな動きにブレーキをかけ続けてきた後藤田正晴氏が亡くなりました。
 元女優の山口淑子が、「李香蘭時代の国策映画は中国人の心を踏みにじったと後悔しています。小泉純一郎首相の靖国参拝問題を一つのきっかけに、中国人の抗日の感情が噴き出したのを、私は理解できるんです」と語っています。
 「小泉さんがかっこいいから、自民党に入れました」などと街頭インタビューで答えていた若者達は、膨大な数の被害者の痛みも、南方の島々やビルマ戦線で餓死した数十万の日本人の無念も考えたことがないのでしょう。そして、こんな若者達を育てた教育の責任が重いと私は思います。リタイアして18年にもなる私が、教育の現場でその責任を果たすことは現実にはできないのですが。

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