介護日記

 

 2005年8月15日 病床日記 その4(最終回)

 和子は20日に無事退院の予定です。
 薬疹のあとに発症した自己免疫疾患の水泡症の治療がたいへんでしたが、ステロイドを使って時間をかけた治療で退院までこぎつけました。ドクターからも資料をもらい、自分でもインターネットで調べたのですが、自己免疫疾患は膠原病という難病につながる可能性もありそうで、一時はどうなるかと心配しました。ドクターから、「ステロイドをそんなに多量に投与しないでゆっくり時間をか けて治療したのが良かったのだと思います。私も勉強させてもらいました。ありがとうございました」と言われました。
 入院は3ヶ月近くになりましたが、医師とも普通に対等に話せたし、ナース達スタッフも親切でした。インフォームドコンセントなどという面倒な言葉を使わなくても、「本来あるべき病院の姿」を実感しました。

 【自己免疫疾患は、自分の体や組織を異物のように認識して、自己抗体やリンパ球をつくり、自分の体を攻撃する現象】とネットの解説にあります。普通の健康体でないのに、和子がよくぞ乗り切ってくれたという思いがあります。

 5年前、札幌西高OBオーケストラとベートーヴェンの第九を演奏するために、OB合唱団が結成されました。合唱の練習のために和子が愛用したグランドピアノを同窓会館に寄付して、その1年後の8月札幌の教育文化会館大ホールを満席にして第九を演奏しました。その経緯を『介護日記』に書いて、翌年出版された私たちの本 『和子 アルツハイマー病の妻と生きる』 の中にも書きました。
 せっかく組織した合唱団をそのまま解散するのはもったいないと、西高メモリアル合唱団と名を変えて永続させることになり、去年の8月はOBオーケストラとシュトラウスの『美しき青きドナウ』を共演しました。それはOBオーケストラの実に第20回演奏会でした。公立高校に本格的なオーケストラがあるのは全国でも珍しいし、そのOB・OG達のオーケストラの定期公演が20回目にもなるのはすごいことだと思います。プロになった卒業生もいるけれど、大部分はアマチュアで指揮者も道職員のエンジニアです。
 去年の演奏会の練習のために、和子を連れて1年間練習に通いました。合唱の練習指揮者の前にソプラノからバスまでの合唱団員が座り、その左端に車椅子の、もはや歌わない和子が、その前にかつて和子が愛用したピアノと伴奏ピアニストという、不思議な練習風景でしたが、それを許してもらって参加しました。すでに札幌で在宅介護になっていたので、私が参加する為には和子を同伴するしかなかったのです。2時間の練習の間に何回か和子の痰がからむので、車椅子のまま事務室に連れて行って吸引機で痰を吸引してやることが必用でした。いつもは車が入れない同窓会館横に車を乗り入れて、車椅子に乗せ替えたり、入口の段差を越えるのに何人かの団員が手伝ってくれたりしました。

 去年の演奏会の打ち上げの時、「来年はキタラ大ホールを確保できたので、また第九をやろう!」という話になり、また和子を連れて秋からの練習に通いました。冬の間は会館の横が雪に覆われて車が入らないので、やむを得ず休みました。何度か和子をベッドに寝かせて練習に出て1時間ばかりで早退したのですが、痰がからんで気道を塞ぐと危険なので、心配でやめました。
 今年は雪が多く、雪解けの5月になってやっと通い始めたら和子が薬疹で入院になり、病院の付き添いを早退して私だけ練習に参加しました。第九演奏会の前に退院できる予定だったので、教え子のナースを頼んで付き添ってもらう準備もしました。第九は演奏時間が長いので、私は2時間ステージから離れられないのです。でも先回書いた事情で和子はお盆明けまでそのまま入院することになり、演奏を彼女に聴いてもらうことはできませんでした。

 キタラは3年前に大学のOBグリーの演奏会でステージに立ったことがあり、歌っていて他のホールでは味わえない充足感を味わったことがあります。残響が長いと言われていますが、バスで歌っている私の耳に、他のパートの音も聞こえてきます。
 今回はオーケストラの団員の数が合唱よりずっと多く、すぐ前の金管やパーカッションや、8人もいるコントラバスの音に圧倒されそうでしたが、本番は感動的な舞台になりました。
 終わったあと聴きにきてくれた教え子たちがロビーで待っていてくれました。「素敵でした」という感想を聞きました。注文したDVDができてくるのが楽しみです。ロビーに出る途中、「後藤先生、加藤です。感動しましたよ」と初老の女性に声をかけられてびっくりしました。西高に生徒のオーケストラを作り、私も赴任以来彼の定年まで8年間お世話になった加藤先生の奥様でした。4人の歌好きの教員が音楽室に毎週集まり、男声クァルテットを歌ったこともあり、個人的にはわが家の子ども2人のスキーの先生でもありました。何度も自宅に遊びに行きました。
 加藤先生が先年突然亡くなり、その追悼演奏会のあと、第九をやろうと話が出たというのが、和子のピアノを寄付する経緯になったのです。和子は混乱期のさなかで在宅介護だったので新聞も読めず、訃報も知らないままでした。でも私も合唱団の一員として良い演奏をお聴かせできて、光栄でした。30年以上前の西高時代の思い出がよみがえりました。

 今日は8月15日、あの「玉音(ぎょくおん)放送」で戦争が終わって満60年です。 60年は「還暦(暦が一回りする)」ということから、日本人には特別な思いがあるのでしょう。
 前にも書いたけれど、あの日のことは忘れません。60年たったとは信じがたいほど記憶は鮮明です。
 その一ヶ月余り前の7月9日の深夜、アメリカの重爆撃機B29・145機の焼夷弾攻撃で、住んでいた岐阜市はほとんど消滅しました。私たちは南の木曽川を目指して田んぼのあぜ道を逃げたから無事だったけれど、北に逃げた人たちは長良川の橋詰めで集中的に焼夷弾を落とされ、人口20万人のうち死者900人、負傷者1400人という大惨事になりました。焼け跡には何日も死臭が残っていました。
 それから一ヶ月余り、家も何もかも燃えてしまったのにまだ戦争は続き、15歳の私が駆り出されていた学徒動員(トロッコ押し)が終わった日の夕方、「明日は重大な放送があるから家でラジオを聞くように」と言われて、炎天下のトロッコ押しは休みでした。わが家は岐阜市の最南端で焼け残ったけれど、焼け跡の人たちはどうやって「玉音放送」が聞けたのか、今も不思議です。街じゅう焼け野原で、家も何も無かったから。
 15歳の人並みの軍国少年ではあったから、そんなにやられていても日本が負けるとは思わず、でも聞きづらい天皇の「終戦の詔勅」で、戦争が終わったことがわかってホッとした記憶があります。兄たち3人が徴兵、4番目の兄が秋に入隊する予定の夏でした。少年兵という制度があったし、通っていた(旧制)工業学校の電気通信科で、「通信兵として爆撃機に乗る」ことを運命づけられていたから、「次は自分の番だ」という覚悟をしていました。
 奇跡的に生還した兄たち3人はここ数年であいつで亡くなり、4番目の兄も夫人を亡くしたあと病を得て老健施設で暮らしています。男で末っ子の私が1930年6月生まれで終戦時15歳、60年たって75歳です。

 きょう小泉氏は首相談話で、「多くの国々、とりわけアジアの諸国民に対して多大の損害と苦痛を与えたことに痛切な反省とお詫び」をし、「戦後60年の歩みを踏まえ、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく」という決意を述べたそうです。でもやっていることは、そんな言葉と裏腹に、政府と自民党は米英が始めた大義なきイラク戦争に荷担し、平和憲法改悪をもくろみ、アジア諸国との間の緊張は増しています。700兆円を超える国と地方の借金(赤ん坊まで含めて国民一人当たり600万円)・財政破綻から年金・福祉、更には教育現場の崩壊まで、戦後最大としか思えない内憂外患を抱え込み、どうしようもなく郵政をこじつけにした強引な解散をしたとしか私には思えません。あの思い詰めた顔を見ると、やはりヒトラーやスターリンを思い出します。そもそも民主主義とは相容れない性格の持ち主なのでしょう。
 彼が放つ刺客のマドンナたち、日本最初の女性主計官や高名な国際政治学者にいたるまで、「総理からご指名ですから、どんな条件でも有り難くお引き受けします」などと言うに及んでは、彼女らのアイデンティティーや知性はどこにあるのかと疑います。何をかいわんやです。

 戦後60年だから民放もNHKも力を入れて特集番組を放送しています。見る時間もほとんどないけれど、NHKはスポンサーの制約もないから特に力を入れているようです。過去のアーカイブスを総動員して作る番組は「昔のNHKはまともだった」と思うし、BBCから買ってきて放送している番組などは、同じ公共 放送でどうしてこんんなに違うのかと思うばかりです。16日から始まる『アウシュビッツ』もBBCとアメリカのプロダクションの共同制作作品です。

 気になって仕方ないのは、【この夏 NHKは戦争と平和を考えます】 とか、【まっすぐ真剣 NHK】 とかいう、顔の売れたアナウンサーを使ってのコマーシャルの垂れ流しです。「夏が終わったら、もう考えないのか」と嫌みも言いたくなるし、だいたい「ことばだけ」というものがどんなに空疎なものか、誰でも知っていることです。NHK放送文化研究所は、そういう研究をしないのかなあ。
 「十代しゃべり場」とかいう、一見真面目そうな、ひどいタイトルの番組があります。十代の若者を集めて「いいたい放題、言いっぱなし」の番組です。「しゃべり場」などという日本語のタイトルもひどいし、日本語破壊の元凶はNHKかと、言いたくなります。かつてジャーナリストの江川紹子が進行役をやっていた、教育チャンネルの、若者の討論番組とは全く似て非なるものです。

 9日付けの朝日新聞の声欄に、『テレビの「品」忘れたNHK』という読者の投稿が載りました。

「・・・かつてNHKは全分野の放送に品格があったのだ。それが今は・・お祭り騒ぎ的な演出が過剰だ。・・タレントがわめきチラして飲み食いし、アナウンサーも浮ついて民放そっくりだ。受信料を使ってこの程度か。・・・」

 私も全く同感です。私はNHKのコマーシャルを見るたびに吐き気がします。【公共放送 NHK】などと、視聴者を舐めているとしか思えません。バカでないかと思います。学校で教師が自分や学校側を持ち上げたスローガンを掲げたら、間違いなく生徒にバカにされます。
 公共放送という公器を預かっている認識がいったいあるのか。たまにしかテレビをつけないのに気になるのだから、洪水のように流しているのでしょう。日本には「態度で示せ!」という古くからの言い方があります。こんな浮ついた空気の中で職員の横領も発生したのだろうし、国際女性戦犯法廷報道に対し、政治家の圧力で番組を改編した問題も解決していません。NHKは証拠が残っていないことで朝日新聞社を訴えているけれど、本屋で立ち読みした月刊現代では、与党側に伺いをたてて番組を短縮したことは明らかです。「職を賭しても闘う」BBCと、「伺いをたてて番組を改編する」NHKとの差。

 日放労というNHKの労働組合があるけれど、この組合は、NHKの番組の質の維持・改善にかかわっていないのだろうかと不思議です。私は昔はNHKしか見ませんでした。騒々しい民放テレビは見るに堪えなかったからです。今は、せめてキャスターが意見を持っている民放のニュース番組を見ています。公共放送でも、「しっかり意見を言う、圧力に対しては職を賭して闘う」という姿勢を堅持してきたBBCとは天地の違いです。「政府は嘘を言うから信用しないけれど、BBCは信用します」とは、民放が報じたロンドンでの街頭インタビューです。そこまで視聴者から信頼されれば、受信料強制徴収もあり得るでしょう。100万を越えたというNHKの受信料不払いはもっと増加するだろうと私は思っています。

介護日記目次   戻る   ホーム   進む