介護日記

 

 2005年7月16日 病床日記 その3

 病床日記(その2) を書いてから、1ヶ月たちます。
 半月ぐらいで、(その3)を書くつもりでいたのですが、症状が日々流動的で、書くタイミングをつかみかねていました。入院したのが5月26日ですから、もうじき2ヶ月になります。

 和子が入院している間に、季節はずいぶん過ぎました。桜も梅も終わり、ライラックも散りました。今は初夏のバラの季節です。冬が低温続きで雪解けが遅かったのですが、6月初め、暑い日が何日かありました。そのあと梅雨前線が北上して梅雨寒(つゆざむ)の日が何日かありましたが、ここにきて8月の盛夏の気温です。それでも空気は乾燥しているし、6階の病室は風が吹き抜けて、過ごしやすい毎日です。

 先日和子の骨密度を測ってもらいました。結果はA判定でした。寝ている時間が多いし、今年は春の日光を浴びて散歩をする機会もないまま入院したので心配していたのですが、先ずは大丈夫のようです。「食事のバランスとカルシュウムの摂取がいちばんです。日光は補助的ですから」と医師に言われました。栄養剤ではなく、毎食私と同じ食事をミキサーにかけて取っていたのが良かったと、私は勝手に思っています。病院でもミキサー食ですし。

 和子が総合病院の内科病棟に入院して、体の状態全体を管理してもらいながら、入院の主症状である皮膚科の治療を受けているということは、すでに書きました。最初の症状である抗てんかん薬による発疹は随分良くなりました。両足・両腕・大腿部などにできた発疹はほぼ治まってきて、腫れもひいてきました。もう一つの症状、自己免疫疾患の疑いがある水疱症も、新しい水疱の発生が無くなりました。最初に強いステロイドを使ったので、今は1週間単位でステロイドを減らしているところです。ステロイドは効いたけれど、やはり諸刃の剣で、口の中の粘膜がやられ、吸引した痰には血が混じっています。眠りながら噛むので、唇から血が流れて、なかなか乾きません。でも何度も書いたけれど、痛覚が無くなっているので、本人は痛そうにはしていません。

 私は毎日通って、3時頃から門限の7時を少し過ぎて帰ります。土・日を除く毎日、リハビリ室から物療師がきてくれて、15分程度ストレッチをしてくれます。手足の硬直ももずいぶんほぐれて、柔らかくなっきました。そのあと車椅子に移って院内を散歩します。

 エレベーターホールの窓から札幌ドームの銀色に輝く屋根が見えます。晴れた日は、その向こうに札幌市の南西に連なる百松沢山・烏帽子岳・神威岳の連山が、更にその奥に空沼岳から札幌岳につながる山並みが、そしていちばん左端に支笏湖畔の活火山・恵庭岳が見えます。目の前のマンションが邪魔して、こちらの場所を変えないと全部は見えないのですが。
 マンションが視界を遮るという景観権裁判が時々あるけれど、日本には景観権はまだ定着していないようです。スイスはもちろんですが、ロンドンもパリも、視界を遮る無粋な建物はなく、オルセー美術館の屋上から遠くモンマルトルの丘が見えました。

 和子は入院中一度肺炎にかかりました。ステロイドを使っているので抵抗力が落ちていたのでしょう。レントゲンでは肺に影は見つからなかったのですが、熱が引かなかったので、最新鋭のCTの断層写真で、肺に影が2ヶ所見つかりました。でも抗生剤の使用で治まってきました。

 そんなわけで、この状態で回復すれば、たぶん今月末には退院できるでしょうと、内科と皮膚科の主治医の予想です。

 先日廊下で私の方を見ながら近づいてくるDrがいました。そばまできて、「後藤先生・・・ですね、西高30期のSです。先生のことはホームページを拝見して知っています。30期の中では有名ですから」と。もらった名刺には札幌徳州会病院・救急診療部長、裏面にはER director と印刷してありました。「徳州会グループから派遣されてバンダアチェに行ってきました。たいへんでした」と言っていました。
 津波で跡形もなく流された所に行くのだから、自分たちの飲み水・食料から排泄の始末まで、いわゆる自己完結型の救助隊が、即刻出発しなければならず、彼がER の最前線にいるのがわかりました。あとから主治医が、廊下で見ていたナースから聞いたらしく、「S先生が後藤さんの教え子なんだそうですね。彼は徳州会グループの国際救助隊のエースですよ」と言いました。教え子がこんな風に活躍しているのを見るのは嬉しいものです。最後まで私が現場の一教師だったから味わえる役得です。
(管理人註: ER = Emergency Room. 元々は「救急処置室」の意味だが、「救急医療」の意味でも使われているらしい)

 津波のことで、やはり書いておきたいことがあります。
 7月12日は北海道南西沖地震から満12年の日です。奥尻島の慰霊碑の前で行われた12周年慰霊式の様子をテレビが報じていました。
 1993年7月12日午後10時17分、寝静まった北海道奥尻島の漁師町をマグニチュード7.8の大地震が襲いました。数分後に巨大津波が押し寄せ、さらに火災が発生し、南端の青苗集落は壊滅しました。当時東京にいた私たちは青苗集落が炎上する夜景の空からの映像に息を呑みました。和子は奥尻島を知らないけれど、私は十数年前の夏休みに、当時勤務していた札幌西高校の理科の職員旅行で島内を一巡して、南端の青苗岬に通じる集落もつぶさに歩いて見ています。まだ私の記憶に新しいこの島が、地震と津波に襲われ、更に炎上する様子は、にわかには信じられない思いでした。夜が明けて災害の状態が少しずつ明らかになってきました。青苗集落は津波と大火で跡形もなく、瓦礫と化していました。人口4700人の奥尻島だけで、200名を超える死者行方不明者が出ました。
 和子の病気がわかり、医師から「アルツハイマー病中期症状です、どんどん進みます、覚悟して下さい」と宣告されたのは、その半年前のことでした。新しい記憶は残らないと教科書には書いてあったけれど、その4月にはロンドン・パリのフリー旅行8日間も終え、和子はそれなりに充足したようです。ロンドンの広大な公園を歩き回り、好きな絵を見に何日も美術館に通いました。
 でもその後の、1991年の雲仙・普賢岳の大火砕流(死者・行方不明者43人)、1995年の阪神・淡路大震災(死者・行方不明6436人、重軽傷4万3000人、全半壊家屋27万戸、避難者35万人)など、誰もが忘れることができない大事件は、まだ普通に会話ができた和子の記憶には全く残っていません。

 物言わぬ和子のベッドのそばで考える時間は十分にあります。私たちは結婚を決めたときから、この時代を生きる人間として(二人とも教師だったし)、歴史と時代を共有して生きてきました。でも考えてみれば41年余りの結婚生活の中で、和子が記憶力も含めて健康だったのは半分の20年余りです。自分たちが生きている日本と世界の歴史を日常的に共有できたのは、前半の20年余りだったと考えると、若年性アルツハイマー病のむごさがわかります。
 病気の混乱期はずいぶん前に過ぎているし、いまはただ静かな和子ですが、戦後60年のいま、日本の歴史の重さを、和子と話すことができないのは、何よりも寂しいことです。

 敗戦後も長年中国に置き去りにされ、帰国後の支援も不十分だったとして、大阪府内の残留孤児32人が国に1人3300万円の賠償を求めた訴訟で、大阪地裁は請求を棄却する判決を言い渡しました。全国で1000人以上の孤児が提訴している初の判決でした。「生活保護を受ければいい」というのが、行政側の今までの姿勢でした。
 天皇夫妻が先月サイパン島慰霊のためにおもむきました。昭和天皇は何もしないまま亡くなったけれど。サイパンだけでなく、南方の島やビルマ・シベリアなど、戦地だったところに眠る何十万の日本兵や民間人の遺骨の収容さえ日本政府は組織的な事業としてやってきませんでした。
 ミャンマーの政治難民を容赦なく追い返す日本。そんな日本が国連安保理事会の常任理事国に立候補して、アメリカ政府からさえ反対されています。政府は大国の仲間入りをしたいというのだろうけれど、60年前の戦争の後始末さえせず、難民条約を批准しているのに追い返す日本、そんな日本が国際社会で相手にされるわけもないでしょう。前の大戦の戦勝国だけが拒否権を持つという、今の安保理の問題はあるけれど、日本はそんなことより、やり残したことがあるはずです。

 間もなく、あの灼熱のヒロシマとナガサキの8月がやってきます。

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