介護日記

 

 2005年6月14日 病床日記 その2

 11年前、東京から北海道に戻ってからも、秋になると「キンモクセイの季節だなあ」と毎年思ったものでした、野菜はハウスの普及で季節感が無くなり、1年中なんでも手に入るようになってきたけれど、切り花以外の花の香りは、その場所にいかなければ味わえません。
 5月、東京の教え子から、ハナミズキの便りがきました。ギラギラ照りつける夏の日、畑の間を縫うように通じている多摩湖自転車道の脇に、サルスベリの赤や白い花が鮮やかでした。頬かむりした農家のおじさんと、この花の話をしたのを覚えています。ゆっくり歩く和子と一緒だと、忙しかった昔は目に入らなかった花や木が、初めて見るように思えました。
 何度も書いたけれど、病気がわかって十数年の間の、世界を揺るがした戦争や国内の大事件や、みんな和子の病気の進行の記憶と分かちがたく結びついています。

 5月になると、いつもシューマンの歌曲集『詩人の恋』の1曲目、「美しい5月に」 のメロディーが浮かびます。この歌曲集はハイネの詩集『歌の本』の中から20編選んでシューマンが曲を付けました。

   美しい5月に、私の胸に、恋が生まれた。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・
   私は燃える想いを、あの人にうち明けた。

 ハイネの原詩も明るくはないのですが、きれいな曲で心にしみます。シューマンも好きだった和子の、使い古した輸入版の楽譜があります。半世紀も前だから輸入版しか無かったのでしょう。この曲は、わずか1分20秒という短かさで、しかも唐突に曲が終わるのです。何か実らない恋の予感さえするけれど・・・

 でもやはり北国の5月は、万物が燃え始める季節です。・・・と、ここまで書いていたのですが、5月の半ばから和子の体に出始めた薬疹騒ぎで、続きを書けないまま日が過ぎました。

 そしてここ数日、札幌は毎日25度にもなる日が続きました。平年なら7月下旬の気温です。相変わらず異常気象です。暑い夏は二人とも大好きなのですが、異常気象がこんなに続くと、早い夏の到来を喜んでばかりもいられません。

 いま和子はラジカセでシューマンの歌曲集を聴いています。歌っているのは、バリトンのトーマス・ハンプソンです。『リーダークライス』と『詩人の恋』が全曲入っています。『詩人の恋』の第14曲が「輝く夏の朝に」です。

   光りかがやく夏の朝に
   私は花園を歩きまわる。
   ・・・・・・・・
   ・・・・・・・・
   花はささやきかわし、語りあいながら
   あわれみをこめて私を見つめる、
   「あたしたちの姉妹に腹を立てないでね、
   うれいに沈んで、蒼ざめたお方!」

 タイトルの「輝く夏の朝に」とは裏腹に、この曲も暗いです。原詩のハイネの「歌の本」の中から、シューマンが選んで作った曲集だから、シューマンの心のうちが現れているのでしょう。

 和子が薬疹治療のため入院して今日で20日目になります。抗てんかん薬のアレビアチンによるアレルギーで、全身あちこちに赤い湿疹ができました。その治療の過程で、赤い湿疹とは違う水疱が出ました。皮膚科のDrの話では、「線状IgA水疱症」らしいということで、薬疹とは別の薬で、「2本立て」の治療をやっています。どちらも良くなってきている一方で、また新しい患部が現れるという状態で、当初の私の見込みは外れて、少し長期戦の感じです。
 先回も書きましたが、本人は痒覚(ようかく)がないようで平気なのですが、これが普通だったら痒くてたまらないだろうと、看病する方では複雑な思いをしながら過ごしています。そして顔だけは大丈夫だったので、薄く化粧をして院内を車椅子で散歩していたのですが、今は顔にも出てきたので、化粧もできません。
 線状(linear リニアー)というのは、表皮と真皮の間に線状に炎症を起こして、表皮の上に水疱を作る自己免疫疾患らしく、ネットで「自己免疫疾患」というのを調べて、少し厄介なのかも知れないと思っています。

 去年の和子の母校訪問でお世話になった恩師から、速達がきました。お手紙と、2種類のコピーが同封されていました。お手紙の一部を引用させていただきます。

 「北海道放送からビデオテープとご丁寧なご挨拶状を頂き、学校全体があの時の意味を再び問い直し、心の教育の方向性と、神と人に仕える使命を再認識しています。・・・今年3月の卒業生の答辞と、5月23日の同窓会ホームカミングデイ祝辞で述べた深谷松男学院長の言葉をお目にかけます。全文の中の一部分ですが、後藤和子さんの来訪が私どもに与えて下さった恵みの力をお読み取りいただきたいと思います。・・・ いまどきの若者とは?と何の手応えも感じない現世で、これだけの影響を及ぼして下さったことに、すばらしい潜在力の伝わりを感じます。本当に嬉しいことでした」

 その3月の卒業式で、卒業生代表が読んだ、長い巻紙に毛筆で書いた答辞のコピーが同封されていました。

 「・・・そんな中、音楽科第7期卒業生である後藤和子さんが母校である宮城学院を訪問されました。・・・後藤さんが在学中何度も歌われたでしょう、校歌や賛美歌を心を込めて演奏しました。その時私達は、後藤さんが確かに私達の歌に合わせて共に歌っておられると強く感じました。音楽は、病にもおかすことのできない心の奥深くまで届くことができると、心をうたれた瞬間でした。このような音楽の力を身をもって私達にお伝えくださった後藤さん、その後藤さんを力強く支えておられる同窓会、私達は宮城学院女子大学の卒業生となる事を大変誇りに思っております。・・・」

 そして今月開かれた今年のホームカミングデーの祝辞集の冒頭の、学院長・同窓会名誉会長が「母校にようこそ」というメッセージの中で、

 「・・・札幌にお住まいで、アルツハイマーを病んでおられる同窓生・後藤和子様が、昨秋ご主人およびサポートのかたがたと母校を訪ねられ、ハンセンホールで音楽科学生の賛美歌合唱を聴かれた時、一生懸命に口を動かして唱和しておられました。そのビデオを、私は涙に曇る目で繰り返し見ました。・・・」

と書かれていました。もちろん訪問の時、そんな偉い人が顔を出されたわけではないのですが、北海道放送の吉村ディレクターが「仙台の大学側にテープをお送りしたのは3月になってしまいました」と私に書いてきた、そのビデオテープのことです。

 この学院は1886年(明治19年)創設された宮城女学校が前身で、来年創立120年を迎えます。和子が学んだ半世紀前と違い、今では中・高・大・大学院を擁するマンモス女学院です。

 去年10月の旅は、和子の肉親からも歓迎されない旅で、それでも母親のお墓参りぐらいには連れて行かないと、私の気持ちにケリがつかない思いがあり、母校に行ったのも、懸命に生きてきた和子の、生きた証しを少しは残してやりたいと思ったのです。

 速達を読んで早速恩師の先生に電話をしました。先生は私と同年ですが、90歳を越えられたお姑さんを、お子さん一家と在宅で看護しておられます。
 お電話で、卒業生代表の音楽科学生にとって、卒業半年前のあの出来事は、忘れられない衝撃的なことだったこと、そしてあの僅か8分の短いビデオが、学院長という高い地位にある人の心を動かしたこと、「和子さんの母校訪問は、宮城学院全体にとって、計り知れない大きな福音でした」と言われました。

 学童保育の時代の親仲間の方たちのサポートや、放送局の取材とクルーの同行という条件に恵まれて実現した大旅行だったけれど、思いもかけなかった反響に、連れて行って良かったと、心から思います。自分の妻のことを書くのは面はゆいけれど、人間の可能性の大きさに改めて思いを深めたことでした。

 前回書けなかったニュースがあります。和子の車椅子が進化しました。
 10月の東北旅行の時の、北海道放送の特集の中で、フェリーの甲板で私が和子を車に乗せるシーンがあって、「74歳の治さんにとって、和子さんを車に乗せるのも楽ではありません」というナレーションがありました。そのシーンが放送を見たたくさんの方たちに、心配をかけたようです。車は5年前に買った新車で、助手席が90度外に向けて回転する仕様のものでした。その頃は和子も何とか歩けたし、毎日ホームに迎えに行って和子を乗せて朝里のダム湖に連れ出しました。車椅子から立たせて、私が少し力をかければ、はずみで乗れたのです。和子自身が車に乗ることをわかっている頃でした。でもその後病気が進んで、本人が車に乗るという認識が無くなり、脳硬膜下血腫の手術のあとは強い嚥下障害が起き、病院のベッドに寝たきりになりました。栄養をとるために私の決断で胃瘻(いろう)造設をしました。食事の度に鼻からチューブを入れて流動食を入れるという、本人が苦しむ方法は可哀想でしたから。和子は2ヶ月半病院のベッドに寝たきりになり、手足も硬直して身体障害1級の手帳が交付になりました。
 胃瘻を作ったことで小樽の特別養護老人ホームに戻ることを断られ、そんな状態で、縁があってここ円山のマンションに住むようになったいきさつは前に書きました。在宅介護なので、車椅子が常時必用になった和子を、車椅子から抱え上げて車の助手席に乗せるという作業を日常的にこなしていたのですが、介護病と言われる慢性腰痛症の私が、これから先ずっと続けられるというのも現実的に考えられず、放送のナレーションは図星でした。

 年が明けてから、近くにあるトヨタの福祉車両展示場に和子を車に乗せて連れていきました。ボタン一つで電動で助手席が回転して降りてきて、任意の高さで止められる車や、ハッチバックの後部から車椅子を載せられるスロープが降りてくる、といった便利な車が十台近く展示場にあって、操作もやらせてくれました。でも最低200万円ぐらいはするし、「ローンを組んで・・・」といろいろ考えましたが、私の年齢条件もあって無理だとわかり、あきらめて1月の車検を受けました。とりあえず2年先まで頑張ることにしたのです。ただこの電動の助手席でも、高さが任意に決められても、最後は和子を抱え上げて車に乗せるという仕事は残ります。

 週1回和子のリハビリに来てくれる理学療法士が、ある時「参考になれば」と言って、去年の5月北海道新聞の全道版に載った記事の切り抜きをくれました。【乗り慣れた車を福祉仕様に 帯広に改造専門店】 という見出しの記事です。その理学療法士も東北旅行のビデオを見たのです。「しかし帯広ではなあ」と私がその時思ったまま、切り抜きをしまい込んだままでした。
 要介護5の認定を受けて満5年、身体障害1級の手帳をもらって満2年半です。車で外に連れ出すことを考えなければ、日常的にどうということはないし、雪がない季節はエレベーターの設備がある地下鉄の駅経由なら車椅子で外出もできます。でもその先は低床バスが走っているわけではないし、「行きたいところに行く」ためには、去年6月の斜里旅行や東北旅行のように、事前の準備とサポーターの確保も必要です。新聞の切り抜き記事にの中に、障害者の移動・移送に詳しい札幌のNPOの代表が、「車を改造した方が障害により適合するし割安だが、業者は大変少なく、知られてもいない」とコメントしていました。

 その帯広の専門店・(有)イフ に電話をしました。電話してわかったのは、その店が社長ともう一人の二人で切り盛りしている車の改造の町工場だということ、札幌に同種の業者が無いので、月に2回ぐらいは札幌に行くので伺います、という話になりました。翌週、ついでがあるから伺います、と言ってこのマンションに来てくれました。
 そして熊本の一企業が開発した、商品名チェアリーバという、車の助手席が台車の上にスライドして、車椅子に早変わりする商品の現物を見せてくれました。そのメーカーのチラシに、「介護保険のレンタル対象商品です」とあります。車椅子は高いのでも十数万円ぐらいですが、この商品は58万円(非課税)とあります。見積もりを出してもらったら、取り付け部品(私の車に合う回転ベース)と工事費も含めて61万円余り、イフでもローンを組めると言われたけれど、レンタル業者とケアマネに相談して、デイサービスの利用時間を減らし、朝の訪問看護や介護を返上して(私の介護時間と仕事量は増えるのですが)、何とか要介護5の限度枠に収まることになりました。
 この車椅子は常時室内に置き、車で出かける時はベッドからそのまま乗せます。介護ベッドも車椅子も高さを上下できるし、横滑りのためのトランスファーボードもあるので、腰に負担はほとんどかかりません。乗せてしまえば、あとは和子を乗せたまま車の横に連れて行って助手席にセットするだけです。和子を乗せないで車を使うときは、助手席は座席そのものがありません。今度の入院の時はチェアリーバに乗せて車で行ったので、個室のベッドのわきに置いてあります。車はその日のうちにマンションに乗って帰りました。その日は地下鉄でとって返し、それから毎日通って今日で20日目です。毎日この車椅子に乗せて、病院内を散歩しています。普通の車椅子と違って乗用車の座席なので、疲れも少ないでしょう。「立派な車椅子ですね」と、廊下で行き交う患者さんたちに評判です。
 この車椅子はまだ北海道内で10台ぐらいしか使われてないそうです。以下は(有)イフのホームページアドレスです。読者の方に、少しでもお役に立てばと思います。
http://www014.upp.so-net.ne.jp/ifif/faq.html

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