介護日記

 

 2005年4月17日

 今日はベランダの気温が5度、小雪が風に舞っていました。

 札幌の積雪は昨日ゼロになりました。この近くにある札幌管区気象台の積雪計の雪が無くなったのですが、小路に入るとまだまだ雪は残っています。今年の降雪量は6メートルを超え、例年の1.5倍だとか。
 車椅子で歩くのはまだ無理なので、今年初めて和子を車に乗せて、近くをドライブしました。昨日は15度もあったのです。北海市場という古い倉庫をそのまま使っているお店に寄りました。通路が狭いので和子は車の中で留守番してもらって、野菜や魚を買いました。初ドライブなので、お祝いに真鯛を買いました。九州産の、もちろん養殖物ですが、35センチもあるのが943円です。他のお店の半値みたいな感じです。

 帰りに平和教育仲間だった私立高校の教師宅に寄りました。彼は家の日陰の雪割りをしていました。北海道では、氷でなくても雪割りと言うようです。奥から夫人も出ていらして、車の中の和子を見て、「和子さん!お元気そう。去年とおんなじですね」と言われました。去年は夏でしたが、打ち合わせておいて車椅子を押して行きました。坂の上の方にお宅があるので、ご夫婦で坂の下まで迎えにきてくださったのです。ほぼ1年たつけれど、全く化粧してなかった和子は、血色も良くて、ほんとうに病気に見えません。呼ばれると目を開けてそっちを見たりするので、目が見えていると誰でも思います。

 社会科教師の彼は、公選制の4年任期の教頭2期目です。彼の学校では「日の丸」も「君が代」もない、生徒手作りの卒業式や入学式を続けています。「日の丸」は、もうスポーツ大会で当たり前になっているけれど、戦中派の私は、やはりこだわります。「日の丸」の小旗に送られて、私の兄たちも出征して行ったのです。その光景は60年以上経った今でも忘れません。兄たちは奇跡的に死なないで戦後復員しましたが、小学校(途中から国民学校)の校庭にテントを張って、帰ってきた遺骨の白木の箱を何十も並べて、慰霊祭をやったのも忘れません。慰霊祭で歌った歌も忘れません。「海行(ゆ)かば水漬(みづ)く屍(かばね)・・・大君の辺(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ」という大伴家持の古歌に信時潔が曲をつけたものです。日中戦争が始まった昭和12年(1937年)から卒業の昭和18年まで続きました。小さな農村だから、遺骨で帰ってきた人の何人かは知っている人です。

 そう言えば、園遊会に招待された東京都教育委員の将棋名人だったか、天皇から声をかけられて、「君が代」の完全実施のために頑張ります、という意味のことを言って、天皇から「無理をしないで」と、たしなめられるというナンセンスな一幕もありました。天皇の方が象徴の地位と「君が代」の間の微妙さがわかっているみたいでした。

 私の経験を思い出します。1982年の4月、娘の札幌市立高校入学式に、年休をとって出席しました。札幌市立は道立と同じ日だったのです。家から近くて自転車か歩いてでも行ける距離で、合唱が盛んで、娘が自分で選んだ高校でした。比較的自由な学校と聞いていたし、私が勤めていた札幌西高は「日の丸」も「君が代」もなく、新入生はオーケストラと合唱の「メサイア」で迎えられるのです。壇上には「日の丸」があったけれど、こんなものだろうと思っていました。生徒が入場して、立たせたままで式が始まって、「国歌斉唱、ご起立ください」とアナウンスがあり、私の回りの親たちは起立しました。思いもしなかったことで、心の準備はなかったけれど、もちろん座ったままでした。50人学級で10クラス、両親で来ていた人もいたようだったから、500人以上いたでしょう。歌っていた人は少なかったけれど、回りが全部立っている中で座っているのは、かなりプレッシャーでした。

 東京の高校教師たちが、処分にめげずに抵抗しているけれど、教育課程に国旗・国歌を「入れた時、官房長官が国会で「強制はしない」と明言しています。東京では生徒が「先生たちを処分しないで」と区の教育委員会に陳情しています。生徒が起立して歌わなかったと、担任の教師を処分したり、狂気の沙汰としか思えないことが起きています。
 広島県教委 「君が代声量報告求める 不起立人数も」(13日付け朝日新聞)。文部科学省はものわかりのいいことも言っているけれど、教育の現場では、正気の沙汰とは思えないことが横行しています。

 私は現役の教師時代、生徒に「人間いつも筋を通してばかりでは生きていけないけれど、肝心な時に筋を通すことをしなかったら人間の資格がなくなる」と言っていました。いま処分の嵐が吹いている東京や広島にいたらどうするかと、いつも考えます。10.21ベトナム反戦ストと、もう1回何のストだったか、2回戒告処分を受けています。1年に半日ストを1回やっただけで、生徒の学力を損なったとは毛頭思いません。昇級が3ヶ月延びて、生涯賃金や退職金・年金にも響きます。でも私たち夫婦は、そんなことも納得して一緒になったのです。私が筋が通らないことをしたら、和子が何と思うだろうと、時々考えます。

 和子も風邪一つひかないで、冬を越しました。もう少し暖かくなったら、また車椅子を押して歩き回ります。

 1日が30時間欲しい毎日だけど、何とか元気にやっています。

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