介護日記

 

 2003年12月31日

 静かな大晦日です。
 気温が高く、道路の雪も融けて濡れています。でも夜間冷え込むと、ブラック・アイスバーンになって滑りやすいのです。ずっと暖冬で雪も少なかったのですが、年明けから平年並みの寒波がやってくるようです。パソコンのモニター越しに、隣の部屋の介護ベッドで寝ている和子の横顔が見えます。
 小樽でショートステイを利用して以来、和子は年末年始はずっと特養ホームでした。寂しかっただろうなと今になって思うけれど、介護保険制度はまだ始まっていなかったし、65歳になっていなかった和子は、在宅で利用できる社会資源(と、当時は言われていました)が存在しませんでした。いまこうやって、24時間一緒に過ごして、たとえようもない安心感があります。あれは97年の2月だったから、6年ぶりに一緒の大晦日です。

 冬至が過ぎて10日も経つと、日が長くなったのがわかります。街なかの住宅街(というよりマンション街)に住んでいるので、小樽時代のように季節の変化に敏感ではなくなってきているのですが、それでも日が長くなるのは嬉しいです。外はこれからが厳冬期なのですが、和子を連れて散歩出来る日が近づいているのですから。
 ここのところ一日おきに暖かい日と寒い日が交代でやってきて、降った雪が融けてアイスバーンになって、歩道も交差点もツルツルです。和子の車椅子は前輪が12センチ、後輪が25センチしかなく、雪道は滑って全く進みません。年末年始は暖かいマンションで冬ごもりです。

 札幌市の西の端の手稲区にあるキリスト教会に、何度か音楽会に行ったことを前に書いたことがあります。そこの信者の教え子から、音楽会の案内が届くのです。数年前にバッハのマタイ受難曲を聴きに行ったのが最初でした。2階の会堂に立派なパイプオルガンがあり、オーケストラもオルガニストもソリストも、大半が教会員のプロの音楽家たちだったのが驚きでした。まだ混乱期だった和子を乗せて小樽から夜道を走る勇気がなくて、可哀想だけど和子は特養ホームでお留守番でした。教会はJRの手稲駅から近いので、毎回列車で行きました。昼間のコンサートに連れて行くようになって、和子は教会の皆さんと顔なじみになりました。札幌西高時代の教え子が何人もいました。去年のクリスマスはバッハのクリスマス・オラトリオでしたが、和子は入院中で私は定期券で病院に通っている時で、行く余裕がありませんでした。あとから、その時のテープをもらいました。

 今年のクリスマスはヘンデルのメサイアでした。男声パートが足りないということで声がかかり、和子を連れて行くから昼間の練習だけ、という条件を受け入れてもらって参加することにしました。メサイアの第1部から6曲とハレルヤで全7曲、日曜午後だけ4回の練習でした。大学では男声グリーにいたので混声4部のメサイアの経験はなく、その後何曲かを混声の中で歌ったことはあるものの、日本語の歌詞も初めてでしたからたいへんでした。それでも頑張って、オケ合わせ3回と本番も含めて8回、和子を連れて通いました。
 練習の度に誰かが和子に付き添ってくれて、痰の吸引が必要なときは、私が練習から抜けて吸引機で痰を引きました。当日のゲネプロと本番は抜けるわけにいかないので、信者のナースを頼んでもらいました。雨と風の強い夜でしたが、教会始まって以来という280人もの聴衆と演奏者みんなが感動した舞台でした。指揮者は札幌交響楽団のオーボエ奏者ですが、第一部18曲とハレルヤのスコアを暗譜しているみたいでした。和子も歌っていた私も、その感動の中にいました。
 和子は宮城学院女子大の声楽科にいた学生時代、同じミッション系の東北学院大の男声グリーとジョイントを組んだメサイアの演奏会で、アルトのソロを歌ったと、当時仙台にいて聴きに行った従姉妹話です。もしかしたら記憶の片隅に残っているかも知れない、その演奏会場に和子を連れて行くというのも、少し複雑ではありましたが、忘れられない今年のクリスマスでした。

 十数年来、肺気腫を患って、鼻からのチュ−ブで在宅酸素療法を続けていた京都の3兄が、11月末に亡くなりました。年が明ければ80歳になるところでした。
 和子を連れて行くのは無理だし、葬儀の形式はとらないというので、近くに住むきょうだい達に頼みました。基本的には在宅で、症状が悪くなると入院ということの繰り返しでした。3年前から何度も危篤だと医師に通告されながら強い生命力で盛り返してきたのですが、先月とうとう最後の日を迎えました。
 太平洋戦争末期、三島の野砲連隊にいたのですが、馬に眉間を蹴られて陸軍病院に入院中に本隊は輸送船で南方に向かい、米軍の魚雷で撃沈されて生存者は居なかったと、後に兄から聞きました。
 前にも書いたけれど、兄たち3人が兵役に関わり、3人とも無事でした。米軍が自動車で大砲を運んでいた同じ時期に、日本軍は馬に大砲を引かせていたのです。初めからアメリカとの軍事力の差が10対1と言われた無謀な戦争でした。
 3兄が亡くなって、「昭和の記憶がまた一つ消えた」という実感がしました。復員後、岐阜の実家から会社勤めをしていて、当時旧制工業学校生で、いつもお腹を空かせていた私を、彼は盆と年末に必ず街に連れ出してご馳走してくれました。そんなことが、私が卒業して電話局に就職するまで何年か続いたのが、忘れられない思い出です。

 九死に一生を得て無事に復員し、半世紀以上も生き抜いてきた私の兄たちがいる一方で、自衛隊の海外派兵(派遣などではなく、まぎれもなく派兵です)は、人の命の何という粗末な扱われようかと、思ってしまいます。
 朝日新聞のコラムニスト早野透が、ドキンとすることを書いています。

 「イラクへの自衛隊派遣はいくら人道支援を強調しても、米英占領軍のもとに日本の軍隊を送るという形は変わりようがない。万一のことがあったらどうするか、お国のための『名誉の戦死』にどう報いるか、国葬か防衛庁葬か、そんな話が早くもとりざたされているのは確かである」

 アメリカのネオコンのようなことを言っている石破防衛庁長官が、みずからその『名誉の戦死』の可能性がある最前線に行って部隊を率いたらいいと思います。

 そんなわけで、今年は年賀状を出しません。時間の余裕が無くて出せないままだった転居通知と服喪中の葉書が1枚になりました。

 和子と一緒に、来年も元気で生きて行こうと思っています。

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