介護日記

 

 2003年11月17日

 氷雨が降って、気温が一気に下がりました。昨日の最高気温は5℃でした。円山公園に通じる並木のイチョウの葉もほとんど落ちて、もう初冬の気配です。

 総選挙の投票日の前日、HBC(北海道放送)の取材が入りました。和子の、使いようのない投票所入場券を見せました。絶対に回復しないこの病気の患者に毎回入場券が送られてくるのは酷です。毎日は和子の顔を見ながら、それなりに楽しく過ごせるけれど、精神・身体障害1級で決して元には戻らないことを、選管から届く葉書で毎回駄目押しされているような感じがありました。そして奇怪なことに、和子の一票は棄権としてカウントされるのです。
 ずいぶん昔の話ですが、小樽市に住む身体障害で寝たきりの男性が、投票権を主張して訴えを起こし、最高裁まで争ったことがありました。和子の場合はその逆です。申告して投票権の放棄をしたいけれど、そんな制度は無いでしょう。そんなあれこれをカメラの前で話しました。
 去年暮れまで和子が生活していた特別養護老人ホームも、臨時の投票所が作られて、投票に行けない方たちが投票していました。でも150人の入所者の半数が痴呆の症状と言われていたこの施設で、大量の棄権がカウントされていたのでしょう。ホームは和子の仮の宿と思っていたので、私は世帯分離の手続きをしていませんでした。入場券は私のと一緒に自宅に郵送されてきました。
 ついでに書けば世帯分離をしていない為に、扶養者の収入でランクが決まる介護保険料の、和子の分も私とほとんど違わない額でした。これは以前書いたことがあります。毎月二人で8000円というのは、年金収入だけで生活している身には、かなり負担感がありました。

 HBCのカメラマンが言いました。「夏お伺いしたときに比べて、和子さん血色もいいし、表情も豊かだし、全然違いますよ」と。3食ミキサーで私と同じ物を胃瘻から胃に入れている効果でもあるだろうし、音楽会や散歩や、いろいろ社会参加をしているせいもあるのでしょう。記者が「毎日見ている方は変化がわかりにくいかも知れないけれど、私たちにはそれがわかります」とも言いました。

 病気は間違いなく進行しているのだけれど、症状が良くなるということが、この期に及んでもあるのかと、改めて思いました。

 ヤマハで元同僚だったNさんが病気で入院されました。和子を車に乗せて行ったり、和子がナースにリハビリしてもらっている時は私だけで地下鉄を乗り継いでお見舞いに行きました。ずいぶん回復が早く、先週退院されたのですが、その退院の日、初めての冒険をしました。HBCがぜひ取材したいと交通局から撮影許可をとり、私と和子とHBCのスタッフ3人で出かけました。お天気がわれわれに味方したのか、最高気温12℃の暖かい小春日和でした。マンションから最寄の円山公園駅はリフト(エレベーター)が無いので、隣の西18丁目駅まで歩きました。前にも書いたことがあるけれど、歩道というものは、果たして車椅子の人の便利を意識して作られているのだろうか、と疑うほど歩きにくい代物です。右や左に傾斜しマンホールの部分は低く落ち込み、交差点で横断歩道に下りる所では舗装がはげてへこみ、そしてあちこち工事中で、仮設の歩道に敷いてあるゴムマットの下はでこぼこで車椅子がゴムマットにめり込んで歩行不能です。まるで車がぬかるみに埋まった感じです。後ろから押している私が居てもたいへんなのですから、自力で車椅子を漕ぐ人は、ほとんど通行不能です。少し大回りになるけれど、いつものように車の少ない道を選んで車道の対向車線をあるきました。まっすぐ行けば10分の道が15分かかりました。それくらいは大したことはないのですが。
 駅のリフトの地上出入り口に着き、地下のコンコースまでとホームまでリフトを乗り継ぎました。料金は和子は障害者なので半額、私は70歳以上の無料パスです。駅員が出てきて、自動でない出入り口を開けてくれました。電車とホームの間には数センチの段差があります。介助者が居ない時は、駅員が専用の厚い板を持ってきて電車のステップとホームの間に置き、スロープを作るのを何度か見ています。でも和子は私が車椅子の後ろのバーを踏めば、難なく乗り込めます。乗り換えの大通駅は島式(一線式)ホームなので、乗った入口の反対側から降ります。今度は逆段差なので後ろ向きに降りなければならず、車椅子を車内で半回転することが必要です。満員だったらたいへんだろうと想像したのですが、乗客はみな親切で協力的でした。降りて間もなくの場所に南北線に乗り換えるリフトがあり、スムーズに移動できました。目的の平岸駅は降りた側のホームにリフトが無く、事前に駅員に教えてもらったとおり、一つ先の一線式ホームの南平岸駅まで行き、同じホームの反対側からくる麻布行きの電車に乗り換えました。一つ戻った平岸駅はホームと改札が同じフロアで、リフトを使って地上まで上がり、徒歩5分の距離にある病院に向かいました。ここもすいている道を選んで車道を歩きました。片側一車線しかないとやってくる車の進路妨害になるけれど、どの運転手も車を止めて車椅子が通り過ぎるのを待ってくれました。
 土曜休診日のガランとしたロビーで、退院準備が終わったNさんと夫が待っていてくれました。NさんはこのHBCのテレポート2000というニュースの特集に2回出てくださっているので、スタッフたちとは顔なじみです。例によってインタビューがあり、自宅に車で帰られるご夫妻を病院入り口でお送りしました。カメラさんはここから帰り、記者だけ念のためということで自宅まで同行してくれることになりました。平岸駅のリフトまで戻り、また麻布行きの電車に乗り込みました。新しい車両には車椅子スペースが設けてあり、ホームにもその位置が表示してあるのですが、来た電車はサッポロ・オリンピックの時走り始めた一番古い型の車両でした。大通駅から東西線への乗り換えは、リフトの位置がコンコースの壁に表示してあるのですが、コンコースの西のはずれ、誰も通らない場所にリフトがあり、降りた東西線のホームも電車の止まる位置から遙か離れた位置で、介助無しで車椅子を漕ぐ人はたいへんだろうな、と想像出来ました。「ほとんど誰も利用していないみたいですねえ」とHBCの記者と話しました。サッポロ・オリンピックにまにあうようにできたこの南北線と東西線の中心部分は、設計者が今のような高齢化社会が来ることを予想もしなかったことがよくわかる不便さです。きのうリハビリに来てくれたPTと話したのですが、いまは障害を持ってる人達は、駅に設備の整っている、新しい路線の東豊線(とうほうせん)界隈に家を探すのだそうです。

 去年札幌で、国際障害者世界大会が開かれました。正式名称はDPI世界大会(Disabled Peoples' International) で、誰でもいつかはdisabled(援助を必要とする)になるという思想が大会名称に込められている感じがします。日本では健常者と障害者という区分けが厳然とあるのですが、欧米諸国では出産休暇に入った女性はdisabled なのです。今度の経験で、リフトの設備がある限り地下鉄を乗り継いでどこへでも行けることがわかりましたが、地上に出てからバスに乗り継ぐことは不可能なのです。アメリカに行った人の話ですが、全てのバスが、停車するとステップが出てきて、車椅子の人が自力で乗り込めるというのです。札幌も少ずつ良くなっていくのでしょうが、こちらはリハビリを続けながらも、やはり不自由度は増していくのです。

 自宅に帰ったNさんからメールが届きました。「和子先生が地下鉄でいらしていただけたなんて、夢のようです」と。

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