介護日記

 

 2003年8月9日 ナガサキ原爆忌

 中心気圧が995hPa もあった10号台風が、日本列島をゆっくり北上しています。台風が去って曇り空の下で、長崎は58回目の原爆忌をむかえました。
 長崎市の平和公園で開かれた「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」には、6000人の遺族・被爆者や市民が参列しました。
 伊藤一長・長崎市長は「平和宣言」で、米英両国によるイラク攻撃について、「国連の決議を得ることなく、先制攻撃による戦争を強行し、兵士のほか、多数の民間人が犠牲となりました。国際協調による平和的解決を求める私たちの訴えや、世界的な反戦運動の高まりにもかかわらず、戦争を阻止できなかったことは、無念でなりません」と訴えました。
 更に伊藤市長は、かつて長崎を訪れたマザー・テレサが原子爆弾で黒こげになった少年の写真を前に、「すべての核保有国の指導者は、ここにきてこの写真を見るべきです」と述べた言葉を引用し、「米国をはじめ核保有国の指導者は、今こそ原爆資料館に来て、核兵器がもたらす悲惨な結末を自分の目で見てください」と呼びかけました。
 日本政府に対しては、「被爆国の政府として、核兵器廃絶に向けて先頭に立つべき事」さらに「日朝平壌宣言の精神に基づき、北東アジア非核兵器地帯の創設に着手すること」を強く求めました。

 印象に残ったのは、「若い世代の皆さん」という呼びかけでした。「人類の幸せを追求するために科学技術を発達させてきた人類が、この使い方を誤ったとき、人類に何がもたらされたのか、長崎・広島で何があったのかを学んでください。いま世界で起こっていることに目を向け、平和を実現するために出来ることを考え、手を取り合って行動しましょう」と。

 元高校教師の私の胸を打つ訴えでした。学校現場が今ほど管理が強化されてなく、同じ訴えを教師達が生徒に訴えることが出来ていたら、日本の政治はもう少し違っていたのではないか、という気がしてなりません。
 ほんとうに命を失えば元も子もない、という当たり前のことが、ブッシュやブレアや、それに追随する日本の首相には理解できないほど、昨今の情勢はひどいです。

 式典の中で、水を求めて亡くなった人たちを慰めるため、遺族や高校生代表の手で献水が行われました。私たちは何度も長崎に行きました。行くたびに爆心地や平和公園を訪ねます。平和公園の入り口のところに、水の中に建っている黒御影石に「水をください・・」と彫り込んである、モニュメントの前に立つと、あの灼熱の地獄の中で水を求めて死んでいった人たちのことを思わずにはいられません。

 和子の近況を少し。
 前回書いた、教会でのオルガンとトランペットのコンサートのこと。オルガニストはキタラホールの第5代のオルガニストでスロヴァキア出身の若い女性で、トランペットは札幌交響楽団の主席トランペット奏者でした。バッハ・グノー・カッチーニ・フォーレ・コレッリと、和子が知っている作曲家と作品ばかりだったし、横にいた私は時々和子の顔を覗き込んで、それなりに反応していたのは知っていたのですが、終わりに近くなってオルガン・イン・プロヴィゼーション(即興曲)で、彼女が全く自由に弾くのです。私も少し興奮したけれど、和子は途中で明らかに笑い顔になりました。「笑みが浮かんだ」のは確かでしたが、同行してくれたNさんが、「和子先生、もう今にも話し始めそうでしたよ」と後から言われました。
 ホームでも「歩く要介護5」と言われる存在だったけれど、歩くことはおろか寝返りも打てない重度の今の和子の、音楽への感性はまだ確かだと実感した夕べでした。

 教え子の読者の一人から、「メールマガジンのタイトルに目安になる行数を添えると,受け手は都合がいいのですが,いかがでしょう」と提案がありました。なるほどと思って今回から件名の続きに入れて見ましたが、長いタイトルになるので切れることもあるらしく、取りあえずはトライしてみます。

介護日記目次   戻る   ホーム   進む