介護日記

 

 2003年8月15日
 太平洋戦争終結満58年の日に

 1945年8月15日、昭和天皇の「玉音(ぎょくおん)放送」というものがあって戦争が終わりました。15年戦争と言われる長く続いた戦乱の日々が終わりました。
 「玉音放送」は8月15日の正午だったと思うけれど、記録では14日の日付になっているから、前日に決まっていたのです。学徒動員で土木工事に行っていた15歳の私も、軍用機製造の工場になっていた女学校に行っていた17歳の姉も家のラジオの前にいました。ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏を決めていた政府は、全国民に天皇の肉声で「終戦ノ詔書」を聞かせるために、まる1日を費やしていたのです。戦争が完全に集結したのは「玉音放送」のあとだから、この1日の間に、敵味方合わせてどれだけの人命が失われたのだろう思います。

 6月23日の『介護日記』の副題に「沖縄慰霊の日」と書きましたが、この日は司令官の太田海軍中将が、「沖縄島民かく闘えり。・・後世沖縄島民に格別のご高配あらんことを」という打電を参謀本部に送って自決した日で、米軍との戦争が終わった日ではありません。この日「日本軍の組織的戦闘行為は終わったことになっている」と、ある戦史には書いてあります。しかし8月15日の終戦の日まで戦争は続いていました。日本で唯一の地上戦が行われた沖縄で、この2ヶ月弱の、指揮系統が壊滅した状況下での戦死者の数もいまだにわかっていないのです。本当に終わったのなら、「慰霊」という言葉の意味も生きてくるけれど、犠牲者数日本軍10万、民間人10万という膨大な数は、沖縄全体が戦場になった、その悲惨な戦争の実体を物語っています。そのうちの何万かは、その2ヶ月弱の間の死者でしょう。日本にある米軍基地の90%以上を沖縄に押しつけておいて、未だに米軍による事件が後を絶たない現状は、これが「後世の格別のご高配」の結果なのかと、暗澹とした思いにかられます。

 戦争が終わって58年たって、15歳だった私もそれだけ歳を重ねました。戦争中は、それなりの軍国少年に育てられていたから、8月15日を境にして価値観が180度変わって、今まで「鬼畜米英」と叫んでいた教師が「にわか民主主義者」になるのも、この目で見ました。でも占領軍の統制下とはいえ民主主義が少しずつ定着し、未来に希望が見えてきた日々の記憶は鮮明です。闇の食料を食べるのを拒否して栄養失調で死んだ裁判官がいたあの時代、みんなが餓死すれすれで生きていたけれど、希望に満ちていた時代だったと、半世紀以上たった今思い起こしています。低開発国では何万という栄養失調死や餓死者がいるのに、不景気だとはいえやはり日本は飽食の時代で、生き残った実感がある私には違和感があります。

 終戦の翌年の1946年11月3日、戦争を放棄することを明言した憲法が制定されました。ほんとうに日本は2度と戦争をしないんだと思うと胸が躍りました。しかし半世紀あまりたって、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と憲法前文で高らかに歌い上げた、あの高邁な精神はどこへいったのでしょう。「自衛のための戦争は別」などとは、憲法のどこをどう解釈しても出てきません。警察予備隊から始まって今や巨大な戦力になった自衛隊が軍隊でないなどと、どうして言えるでしょう。日本はその巨大な戦力を持って、世界の憲兵のアメリカにくっついてどこへ行こうとするのでしょう。「職業選択の自由」という言葉はあったけれど、女生徒に説得して自衛隊の看護学校受験を思い留まらせたこともあります。憲法と教育基本法を守ることを誓約して教師になった身として、譲れない義務だと思ったからです。

 8月は毎年のことだけど、思いが溢れることがたくさんあって、とても書ききれません。

 札幌西高のOBオーケストラの第19回演奏会がありました。毎年お盆の季節、全国から団員が集まってきて、演奏会を開きます。その中に私の西高最後の生徒でクラリネット吹きがいます。去年の演奏会の前夜、彼からきたメールの一部です。「明日は奥様の音楽への想い、お世話になった方々に感謝の気持ちをこめて・・私はチュー太先生、奥様の笑顔を思い浮かべながらステージの私のために用意された席に向かいます」と。
 今年は和子を連れていこうと思い立ち、事前にホールに手配して駐車場を確保してもらい、ヘルパーをやっている教え子に手伝ってもらって出かけました。オーケストラの事務局で車椅子スペースと隣接して介助者席を4席用意してくれました。みんなに見守られて和子は無事2時間の長丁場を聴き終えました。前半にブラームスのハンガリー舞曲が4曲あり、和子は目をパッチリ開けて聴いていました。後半のチャイコフスキーの悲愴は少し陰鬱でもあり心配もしたのですが、高らかに鳴る金管の音は、そんな心配をうち消してくれました。このオーケストラは、こんなに金管が鳴っていたのかと思うほどの出来映えでした。

 卒業して満25年になる担任学年の同期会がありました。和子は夜寝て いる時、痰の吸引が欠かせないので、残念だけど欠席しました。その中の、私が担任したクラスのクラス会が、その少し前にありました。「円山のマンションの近くで開いてくれるなら出席できる」と言っていたのが、その通りになりました。ウィークデイの夜、担任しなかった生徒も入れて十数名が集まりました。女医Mが車で迎えに来てくれて、そして1時間したら「先生、痰の吸引です」と、また車で送り迎えしてくれました。それから1ヶ月ほどたって、思いがけないプレゼントがきました。大きな私の机の半分ぐらいを占領しているパソコンのモニターを見たMが提案してお金を集めてくれたそうで、液晶のスリムなモニターを、彼女が片手にぶら下げて現れました。卒業して四半世紀もたつのに、気遣っていろいろやってくれる教え子たちの好意に、胸が熱くなります。残ったお金でということで、パソコン用の、いい音の出るスピーカーが買えそうです。 新しいモニターは奥行きが今までのブラウン管式の何分の一しかないので、横にすれば、奥の部屋のベッドで寝ている和子の寝姿が全部見えます。

 お盆休みで実家に帰った教え子が何人か訪ねてくれました。天気が良いときは一緒に車椅子を押して散歩もしました。みんなから、「和子さん、顔の色艶も良くて、とても病人には見えません」と言われました。去年までの笑顔はまだ見せないけれど、日に何回か笑い顔になることがあります。お盆が過ぎて教え子達が本州に戻ってから、皮肉なことに札幌に残暑が戻ってきました。湿気がほとんどないので、25度を超える日々は快適です。重度の和子に、今後どれほどの回復が可能なのかわからないけれど、とれる手だてはいろいろ取っています。36キロまで減っていた体重が40キロになりました。ミキサーで普通の食事を入れているからなのでしょう。食いしん坊の和子が、口から入れるおやつでも楽しめるのはまだまだですが、ゆっくり進みます。

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