介護日記

 

 2003年8月6日 ヒロシマ原爆忌

 きょう午後和子の車椅子を押して、この近所を1時間半ほど歩きました。傾斜や凹凸だらけの歩道は車椅子にとっては途方もないバリアで、車の少ない道を選んで車道の端を歩きました。このあたりは昔は札幌の郊外の農村地帯で古い道がずいぶん残っています。帰って夕方のニュースで、札幌の最高気温は29.2℃で、この夏の最高気温だったと知りました。でも暑い夏が好きな私たちには素敵な炎天下の散歩でした。この夏25℃を超える夏日はたった3日間で、明日からは天気も悪くなり、気温も下がるようです。北海道はお盆が過ぎると秋の空になるので、今日が最後の夏の日だったのかも。

 今日は58回目のヒロシマ原爆忌です。毎年8月になると、あの灼熱のヒロシマとナガサキのことを思い出します。当時15歳だった私は学徒動員で、揖斐川にかかる東海道本線の迂回路を作る土木工事に加わっていました。毎日グラマン戦闘機の急降下攻撃を受けながら、ギラギラ照りつける夏の日を、それこそ命がけで汗を流していました。もちろん軍の報道管制下だったから、「広島に新型爆弾か」という程度の新聞記事しかなかったけれど、9日の長崎、そして15日の玉音放送と続いた日々のことは忘れようもありません。

 きょう広島の平和記念公園で平和記念式典が開かれ、約4万人の参列者が犠牲者を追悼しました。秋葉忠利・広島市長が平和宣言を読み上げました。

 秋葉市長はこの中で、「国連憲章や日本国憲法さえ存在しないかのような言動が世を覆い、・・・・・米英軍主導のイラク戦争が明らかにしたように、『戦争が平和だ』との主張があたかも真理であるかのように喧伝されていること」などを訴えて、核兵器を廃絶し戦争を起こさない世界を実現するために努力することを誓いました。

 和子は6月から週3回、毎回1時間の訪問リハビリを受けています。病院勤務のPT(理学療法士)は多いけれど、訪問リハビリの各ステーションは人が足りないらしく、週3回に増やすのに教え子のPTも力を貸してくれました。彼は病院勤務で我が家にはこれないのですが、週3回ぐらいはやらないと効果が残りにくいという彼の意見でした。

 昨年末からの手術や病院ぐらしで、身体障害1級の身になってしまったけれど、寝かしたきりにだけはしないようにと、いろいろ手を尽くしています。去年は歩いていたのに、と思うと残念だけど、「あの萎縮した脳の状態で、歩いていたことが不思議です」と教え子の医師達は言います。
 食事は3食私と同じ物をミキサーにかけて胃瘻チューブから入れるようになって、メーカーの栄養剤だけを入れていた頃より、見違えるように血色もよくなっています。まだ笑わないけれど、眠っている時のおだやかな顔は、とても病人には見えません。

 教え子が行っている教会のパイプオルガンとトランペットのコンサートでは明らかに反応して表情が変化しました。ヤマハの講師時代の同僚だったNさんが参加されている、他の施設の音楽療法の会にも見学参加する機会もできました。リハビリの効果があらわれて、車に乗せて出かけることも容易になったし、私が和子用に買った、助手席が回転できる車は、もう生活必需品です。
 坂の多い小樽では、冬の半年間和子をホームから連れ出すのがたいへんだったけれど、ほとんど平地の札幌なら、冬がきてもそんなに行動に制約は無さそうです。

 狭いけれど二部屋で24時間和子と暮らし始めて間もなく半年です。メルマガの読者以外には転居通知も出せないままできましたが、そろそろ書かなければ行方不明になってしまいます。ここ円山で家賃を払いながらやっていけるのか不安でしたが、さいわい小樽のマンションの一部を、ヘルパー派遣の事業所としてお貸しすることができました。荷物はまだ大量においてあるので、3LDKの二部屋に入れてもらって、残りの部分を使って、もう派遣事業をされています。これで経済的にも何とかやっていけそうです。

 8月はまだ書くことがたくさんありそうです。もう一度暑さが戻ってくれればいいのですが。

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