介護日記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2002年7月15日《 斜里行き・旅日記 補遺 》

 季節はずれの台風6号が日本列島に大きな被害を残して、北上してきましたが、北海道東部に上陸した頃は、勢力が衰えて熱帯低気圧になっていました。このあたりは風と大雨だけで済んだのですが、日高沿岸は収穫前の昆布が根こそぎ打ち上げられて、大きな被害が出たようです。1年の大半の稼ぎを夏場の昆布取りであげている漁師の家も多いのです。40数年前、初任地の浦河高校で私が担任したクラスにも襟裳の昆布漁師の家の子どもがいました。
 6号台風で岐阜県西部の揖斐川と支流の杭瀬川が氾濫し、大垣市が濁水に埋まったニュース映像を見ました。杭瀬川は6年間通った学校のそばを流れていました。何年か前から毎年8月末のクラス会の案内が来ていますが、被害にあった友人もあるのだろうと思います。
 台風は秋にくるものなのに、6号のあと7号がいま沖縄から鹿児島を直撃しています。やっぱり地球の循環系はおかしくなったと私は思います。

『北のアルプ美術館』のこと

 1992年6月に和子が東京で行方不明になって危うく生還した年の8月、猛暑の東京を避けて北海道に旅をした時のことです。和子の様子がただ事ではないという不安をかかえて、それでも帯広に住む教え子の養護教諭を訪ねて旅をしました。彼女はその2年前乳がんの手術をして、養護教諭の職に復帰したばかりでした(2年後、彼女は乳がんの再発で52歳で亡くなったのですが)。
 そのあと訓子府町の社会教育主事だったK氏宅に立ち寄り、翌日「和子さんに斜里岳を見せたい」という彼の発案で、車を斜里町に走らせました。晴れていて斜里岳は見えた筈なのに、どうしてか私の記憶に残っていないのです。不安を抱えての旅だったせいなのでしょうか。羅臼岳の登山口にある木下小屋で露天の温泉に入ったのは覚えているのですが。
 その往きだったか帰りだったか、彼が「後藤先生、究極の道楽をお見せします」と私たちを案内してくれたのが、斜里町にある『北のアルプ美術館』でした。串田孫一が代表になって創刊した「アルプ」という山の文芸雑誌は時々本屋で見ていたけれど、この北辺の地で、創刊号から300号で終刊するまでの現物や、たくさんの生原稿の数々にお目にかかるとは、想像を絶しました。軽井沢にいるのかと錯覚したのは、堀多恵子(堀辰雄夫人)の生原稿が目に飛び込んできたからです。館長の山崎猛さんとお目にかかりました。高校生と30年余り山登り続けてきた私の山への想いをお話ししました。山崎さんは斜里の地で事務機会社を創業されて、訓子府のK氏とはその前年か全国社会教育研究大会をこの知床の地で開いたときからのお付き合いだと聞きました。

 若き日に創刊間もないこの雑誌「アルプ」と出会い、「人生まで変わった」という山崎さんは、後に雑誌社とのインタビューで、「私が知床の自然と深く関わる写真の世界に没頭してしまったのもアルプの精神から」と語っておられます。
 美術館は三井農林斜里事業所が昭和36年に社員寮として建築したものを、山崎さんが敷地ごと購入され、「周囲の環境を保全しながら原形を保ちつつ美術館として改修」されたものです。木造2階建ての建物が周囲の白樺樹林と調和して美しかったこと、入り口入ったところに、彫刻家の西常雄作『串田孫一像』があったことを覚えています。

 ちょうど10年前のそのとき、私が山崎さんと夢中で話しているとき、私と一緒にいた和子がどうしていたか、それも記憶が定かでないのです。東京に帰り、山崎さんにお礼状と、6月に出したばかりの私家版の『北海道でとりくんだこと』という、雑文を集めた小冊子をお送りしたら、折り返しご丁寧なお便りと、豪華な写真集『氷海』を送っていただきました。
 和子が後に、「斜里の街はわずか1年で全てを見尽くせた筈はありません。怖ろしく又美しい自然。流氷に埋まった海岸を2時間見た私は、10年分をそこで過ごしたと同じくらいの重みで押されました」と手紙に書いてきた、その“氷海”の美しさと厳しさを改めてその写真集で実感したのを覚えています。ときどき出して眺めるこの写真集は、今も私の宝物です。

 因縁話をもう一つ。和子がこの地に赴任した1959年は、山崎さんは斜里町唯一の教科書を扱う書店の店員で、教科書を納品しに斜里高校にも来ていて、「音楽の高橋和子先生を覚えている」と言われたとか、パートナーのOさんの話です。
 「人の縁は不思議なもの」と実感しながら、その縁に支えられて生きてきました。今回も山崎さんは会社からわざわざ戻られて、美術館の案内をしてくださいました。本宅で和子の相手をしてくれていたサポーターたちと交代しなければならないのでゆっくりは見られなかったけれど、辻 まこと の画文集が去年から何冊か復刊していて、彼が「アルプ」に書いた生原稿が展示されていました。ご遺族(辻 まこと のお子さん)が訪ねてこられたと山崎さんのお話でした。私と交代して山崎さんに美術館を案内してもらったサポーターたちも、展示されているものに少なからず興奮したようです。
 道内や地元出身の美術品も多いけれど、「アルプ作家」として名を連ねている方たちは、藤森栄一・宮本常一・堀多恵子・皆川達夫・坂本直行・椋鳩十・尾崎喜八・・と、綺羅星のごとく、とても書ききれません。

 辻まこと は、戦前のあの激動の時代、壮絶な生涯を生きた辻潤・伊藤野枝夫妻の遺児です。それなのに、そんな重さを感じさせない、あのひょうひょうとした文章と絵は忘れがたいです。復刊した1冊を買おうと思っています。図書館屋は図書館でいつでも読めると思っていたから、肝心の本を持っていないのです。

 この美術館はずっと入場料無料です。K氏をして「究極の道楽」と言わせたゆえんです。観光客向けに高い入場料を取る今どきの私立美術館と対極にある美術館です。冬の数ヶ月間、氷に閉ざされるオホーツクの海を背にして、“屹然として”立つ、美術館です。

 6号台風のあと北海道は気圧の谷の中に入って、太陽がなかなか姿を見せません。すっきりした快適な夏がくるのは、東北地方が梅雨明けしてからだから、もう少しの辛抱です。

 お天気が悪くてダム湖に行けないので、和子を毎日家に連れて帰っています。どうしようもないバリアだと思っていたマンションの玄関の段差を、和子は何とか越えています。雨の日は車から玄関まで濡れるので、手伝って傘をさしてくださるボランティアの方がご近所にいらっしゃいます。ほんのここ半月ぐらい前に知り合いました。和子はその方ともすっかり仲良しで、顔を合わせると声を出して笑います。
 華奢で口数も少なく、控えめだった和子が、病気になってから、意外に生命力が強く、そして開放的に変身したのに私が驚いています。人間が「社会的な存在」だと気付いたかのようです。

 そんなこともあって、和子がとても安定しているので、毎週土曜日の夜ヒマをもらって、北大OB合唱団の練習に通っています。4年に1度の演奏会は9月です。6月は全休したので、これからは遅れを取り戻すために札幌まで練習に通おうと思っています。 東京以来、合唱どころではなくて退団していたのですが、誘われて12年ぶりに再入団しました。

 今度のコンサートは、キタラの大舞台に200人が並びます。関東はもちろん、関西や九州でも現地練習が始まっているそうです。
以下演奏会本番のあらましを書きます。

北海道大学合唱団OB会 第7回演奏会

 2002年9月15日(日) 18時開演
 札幌コンサートホール Kitara 大ホール

T 男声合唱組曲『富士山』
U 現役賛助ステージ
V 客演指揮ステージ
海/野ばら/Aura Lee/Set Down servant/ふるさと
W 歌い継ぐ歌
・シニアステージ
 ロンバーク『学生王子』から「セレナーデ」/ビヤ樽ポルカ
・ジュニアステージ
X 日本の叙情歌
箱根八里/ペチカ/城ヶ島の雨/この道/椰子の実


私も札幌・近郊在住者として、チケット20枚のノルマを引き受けました。 1枚1000円です。合唱の好きな方、是非聴きにきてください。 めったに聴けない響きになるでしょう。

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