介護日記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2002年4月21日

 とうとう春がきました。

 一昨日ダム湖畔園地の遊歩道を和子と歩きました。和子が屋外を歩くのは半年ぶりです。車椅子を積んで行ったけれど、車から降ろさないままで歩きました。湖畔まで下りる遊歩道の雪はまだ残っているので途中で引き返したけれど、半年ぶりの外歩きの第1日は無事終わりました。彼女を立たせたままで写真を何枚も撮りました。ここ何年か、半年余りの冬の間に足の筋肉は退化し、バランスも悪くなっていたので、“湖(うみ)明け”の最初はいつも車椅子から始まっていたのです。 冬の間の半年間、毎日欠かさず22段の階段の上り下りをやった効果があったのでしょう。ホーム仲間の車椅子の方から、「和子さん、階段を上らないと、夕ご飯が当たらないよ」と冗談を言われたり、声を出すのがとても不自由な男の方から声を振り絞るようにして、「和子さん、頑張って」と声援を受けながらの毎日でした。 今年は春が来るのが例年よりずっと早く、先月はまだ氷で覆われていたダム湖の湖面が、青々とした水面に変わっていました。ダムの吐水口からは雪解け水がほとばしっていました。この日、ダム下の電光掲示板の温度は7度で少し寒かったのですが。

 そして昨日は土曜日、気温がぐんぐん上がって快晴でした。記念館も半年ぶりにオープンしました。雪が消えた別のコースを下ったあと、階段を上っている時、顔見知りの管理人の方が出てこられて、びっくりされていました。「去年の秋より、数段良くなっておられますよ。笑顔も去年よりずっと素敵だし」とおっしゃいました。他の方からこう評価されると、和子が「良くなってきた」という確信が持てます。

 そして今日は近くの公園に行きました。山の斜面の渓谷沿いに、小石だらけの遊歩道があるだけで、自然のままの公園です。今年はコブシの花がいっぱい咲いたので、今日はコースを変えました。小石だらけの傾斜の道を何とか歩きました。和子とコブシを入れて写真をたくさん撮りました。「頑張ってますね」と杖をついた男の方から声をかけられました。聞けば、くも膜下出血の後遺症で、毎日リハビリされているのだそうです。立ち止まって笑っている和子を見て、「脳梗塞ですか」と聞かれたので、そっと「アルツハイマー病で、もう 重度です」と答えたら、不思議そうな顔をされました。ホームに帰って出会ったケアワーカーにその話をしたら、「和子さんは普通に見えますからね」と言われました。
 これで3日間、和子は半年ぶりの自然に触れて、何か上気した表情をしていました。ホームから和子の車椅子を車に入れたままにしておく了解も取ったので、雨が降らない限り毎日出かけようと思います。車椅子は和子が歩けなくなった時の非常用に車に載せているけれど、湖畔のベンチまで下りれば、そこで少し休憩すれば時間をかけて駐車場までの上りも大丈夫だろうと思っています。 少しずつ、少しずつ、「普通の生活に」と思っています。会話ができなくても、目と目が合えば、彼女は声を挙げて笑います。記念館の管理人の方から、「去年より数段良くなっている」と、お墨付きも貰いましたし。

 先週の日曜日、朝日新聞の読書欄に私の本『和子 アルツハイマー病の妻と生きる』の書評が載りました。札幌南高時代の山岳部の生徒だった動物学者が、去年から書評委員をやっていて、素敵な心のこもった文章を載せてくれました。その隣が山田太一の本で新潮社、その下が精神科医の香山リカの本で青土社です。毎週3〜4ページの読書欄をざっと目を通すけれど、思い出してみれば地方出版の本が載ることはめったにないのです。
 その評者は、「動物を観察してきた経験から誤解をおそれずにいえば、野生動物だったら二人ともすでにこの世にいなかった。周囲の人々や介護制度に協力を求め、また社会に対して発信し発言する前向きな姿勢がなければ、この十年はなかっただろう。人間は社会的な存在なのだと、改めて思う。」と書いてくれています。

 出版元の亜璃西社の話では、新宿にある地方小出版流通センターという取り次ぎから注文もきて、道内分も入れて、在庫が残り僅かになったそうです。この会社は私の本を出版するのに力を入れてくれて、きれいな素敵な本を、しかも道内出版の常識の倍の4000部を初版として出したのですから、正直私もホッしました。

 HBC(北海道放送)の特集の2週間後、別の民放局のHTB(北海道テレビ)が、やはり夕方ニュースの時間帯に9分の特集を放映しました。これも、担当した女性ディレクターが和子に想いを寄せてくれて、心のこもった特集になりました。その日のテレビ欄の予告に、「いのちの輝き失わず・・アルツハイマー病の妻と・・手探り介護の10年」と出ました。ニュースのキャスターが本を手にして紹介しながら、「アルツハイマー病は医学書によれば人格が崩壊すると言われているんですが、和子さんを見る限り、人格が無くなるという表現からはかけ離れているように思いました」と番組を結んだのが印象に残りました。

 朝日新聞に書評が載った2日前、読売新聞道内版の夕刊に和子と私のカラーのスナップ入りで、記事が載りました。小樽支局の若い記者だったけど、本をきちんと読み込んでくれて、いい記事になりました。「本は、アルツハイマー(病)にかかったら終わりということへのアンチテーゼ」という私のメッセージが最後の部分にありました。

 先週は私が所属している小樽の教員OB・OG合唱団が「出版を祝う会」を催してくれて、和子もおしゃれをして参加しました。何か自分が主役だと感じるらしく、華やいで素敵な笑顔でした。43年前の音大の卒業演奏のテープからシューベルトのリートを1曲と、「歌う和子」と私がタイトルを付けた、3年余り前のビデオから音声だけで『花』と『花の街』を皆さんに聴いてもらい、そのあと参加者全員で何曲か日本の歌を歌いました。和子は座ったままで手で少しリズムを取り、やはり心で歌っている様子が見て取れました。何かこの頃の和子を見ていると、人間はいろいろな形で、社会に参加できるのだという思いにかられます。介護認定では最重度だけれど、精神的な領域がいくらでもあるような気がしてなりません。

 3月初めに2日間北海道新聞に連載された記事の中に、《治は思う。「何かが病の進行を防いでいるかののようだ」》とありました。インタビューで自分が何と話したか、よく覚えてないのですが、確かにそんな感じがします。第1線の脳科学が、この病気の発症と進行のメカニズムに近づくのは、まだ何年も先でしょう。私たちは私たちなりのやり方で、「病の進行を防げるのでは」と思っています。

 イスラエルによるパレスチナへの無差別攻撃は止まず、おびただしい血が流されています。アイルランドの和平は、もしかしたら希望が持てるのかも知れません。
 日本のマチは失業者があふれています。この頃何かノーテンキな番組が多くなったNHKが珍しく昨夜、ホームレスの人たちが急増している深刻な状況をNHKスペシャルで放送しました。40代後半か50代前半の人たちの運命を、私はそんなに他人事には思えないのです。「人生、いつ何が起きるかわからない」ことをこの10年、イヤと言うほど味わって生きてきました。私は親方日の丸の公務員で、年金も57歳から受給して、介護に専念できてラッキーだったけれど、でも「夫が失業して、妻が若年性アルツハイマー病に」という家族があっても、ちっとも不思議ではありません。

 そんな中で国会に「有事三法案」が出されようとしています「国を守る備えをするのは当たり前」とタカ派の議員は声高だけれど、私は戦争末期に経験した「国家総動員法」が思い出されてなりません。ヨーロッパが通貨統合を果たし、国境線が事実上無くなって多民族融合へと向かっている時代に、日本はどこへ行こうとしているのだろうと思います。
 寺山修司が歌った(うろ覚えだけれど)、「・・身捨つるほどの祖国はありや」をこの頃何度も思いします。国家の名の下で、役に立たない邪魔な存在は、いつ抹殺されても不思議ではないと思ってしまいます。高卒後就職して30年も会社のために働き続け、その会社が倒産、失業して家族とも別れ、公園でテント暮らしをしている中高年が何万人も出ている社会はまともでしょうか。「有事法制」などと声高に言っている連中は、その前に墨田川の河畔で一冬でいいからテント暮らしをしてみたら、と思います。私は疑い深いのかも知れないけれど、不況と失業で国民が政治に深く関心を持てなくなっている隙に、途方ない法案が通っていくような気がしてなりません。「有事のとき、国民の私権を制限する」などということを、平和憲法下でよくも考えるなあと思います。しかも「有事」と誰が判断するのでしょう。 みんな平和に慣れてピンとこない状況で、半世紀以上前の「いつか来た道」に日本は戻るのでしょうか。

 それでも和子は良くなっているから、物申しながら私たちは生きていきます。 私の胸のアタックは、もう殆ど心配ない季節になりました。

 政治にも、制度にも、社会の偏見にも、言いたいことはいっぱいあるけれど、とりあえずは、「ぽかぽか春がやってきた 可愛い蕾も膨らんで」きました。小樽の桜が、少し咲き始めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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