介護日記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2002年2月4日 立春 特別号

 今まで書き続けてきた『介護日記』と【もの申す】が、2月末に1册の本として出版されることになり、書き直しや訂正、そして数回にわたる校正に時間とエネルギーをかけてきました。

 けさ、その最後の校正が終わりました。出版の音頭をとって下さった三角山放送局の木原くみこさんが、「先生、体力のあるうちにやりましょう」とおっしゃったことが、実感としてわかる日々でした。

 出版社は札幌の中堅出版社・亜璃西社です。自費出版ではなく、亜璃西社の商業出版です。全国の大手の書店にも配本されるそうです。和子の写真や、彼女が描いた絵もたくさん載って、素敵な本になりそうです。和子との合作という感じがします。その本の最後に、以下のエピローグを書きました。全文その本からの引用です。本が完成したら、次号でお知らせします。

 教え子たちが中心になって3月2日に出版記念会までしてくれる段取りになっているようです。「教師として、それほどのことをやってきたか」という思いは常にありますが、いまは安堵感と嬉しさに包まれています。和子にもそれが伝わるのか、この頃の和子は、殊のほか元気で、にこやかです。体のバランスが悪い日もあるけれど、ひたすら歩いています。車椅子を卒業して5ヶ月余りたちます。そして明らかに話し掛けに応答して、断片的ながら会話らしいものの復活が見られます。

 今日は立春です。快晴で春のような暖かい日差しです。

****************************************

エピローグ 和子さんへ

 私たちが炭鉱と農業の町美唄で出会ってから、今年で満40年です。当時は「音楽のことがわかりあえる同士」というだけの間柄でしたね。

 お互いが将来のことを考えるようになったのは、私が札幌に転勤してからです。でも道立高校の教員同士で、もちろん転勤族だから、双方が仕事を持ち続けながら一緒に暮らす見通しなど全く無かったですものね。

 小中学校の教師には共働きが多かったけれど、高校現場では、そうしたことがほとんど見られなかった時代でした。

 北海道の教育庁が、結婚する教師のために転勤の便宜を図ってくれる時代でもなく、結局、あなたが教師を辞めて札幌に来て、私たちは一緒に生活を始めました。

 音楽という教科ならどこか再就職の口はあるだろう、という予測が見事に外れて、あなたは私立高校の時間講師をしながら、ヤマハに通ってエレクトーン講師の資格を取りました。あなたが私と生活するために支払った代償の大きさを、私は忘れたことはありません。

 あとからわかったことなんだけれど、大学の恩師から「プロへの才能があったのでは」と言われたほどのあなたが、自分の天職として志した高校教師をたった5年で辞めたのだから。

 私は札幌南高に5年、札幌西高に15年いて、最後は室蘭清水丘高に単身赴任でした。毎年2月という月は、「家族に病人が続出する季節」という笑い話があるくらいで、札幌に長くいた教師にとって、この季節は辛い時期でした。

 20年も居たのだから、もう1度地方に転勤を」という校長の強い要請を受け入れ、その代わりに私が「単身赴任で行くから週末に帰宅できるところを」と条件をつけ、室蘭が決まりました。

 「あなたが、それで気が済むのなら、家は大丈夫だから行ってらっしゃい」と、あなたが言ってくれたのを私は忘れていません。

 家には高校生の娘と小学生の下の息子がいました。私は月〜金は家事・育児から解放されて、気楽な独身貴族だったけれど、ヤマハと家の音楽教室で子どもたちに教えながら、家事も育児もこなしていたあなたは辛かったのだろうと、ずっとあとになってから思ったものでした。

 もう1度札幌に戻れる可能性もなかったから、室蘭に5年いて、年金受給の資格ができた翌年、定年より3年早く退職して、私は家へ戻りました。

 その3年後私が異型狭心症を発病して、札幌の私立図書館の仕事を辞め、温暖な伊豆の山中に土地を求めて、「あとは二人で」と決めたときは、「これで少しは埋め合わせができるかも」と思ったものでした。

 東京の病院であなたの病名が告げられたのが92年の12月だから、今年で満10年です。一緒に生活を始めたのが64年だから、あなたの病気がわかるまで、たった28年です。そして室蘭の5年間は、パートナーとしての私は欠落となる期間です。おまけに医師から「発病してから最低5年はたっているはず」と言われました。そう言われれば思い当たることも84年ごろからあったから、何という迂闊な夫だったのだろうと後悔したけれど、もう“あとの祭り”でした。

 「先生、奥様、お変わりありませんか」という年賀状に、まさか「相変わらず」との返事を書くわけにもいかず、あなたの病状はどんどん進むし、途方にくれていた頃、群馬の教え子が「先生、私ワープロ打つから」と、うながしてくれたのが、思えばこの本の始まりでした。

 あれは沖縄旅行の帰り、95年の11月、彼女たち夫婦の所に寄って泊まったんだね。親切な彼女の夫が、星野富弘美術館に連れて行ってくれたっけ。

 そんなことがきっかけで、あなたと私の生活誌として『介護日記』を書きつづけてきたのが、1冊の本として出版されることになり、ここで、あなたへの想いをもう少し書きたくなったのです。

 1年余り前だったか、「失われた10年を追う」(タイトルは確かではないのだけれど)という、作家の小田実が外国の思想家達を訪ねて歩く対論番組がありました。そして2001年は、「失われた10年」という言葉が、流行語のように使われました。それだけ日本の(そして世界の)政治・経済・社会状況の深刻さがはっきりした年であり、「先が見えない」という言葉もずいぶん使われました。

 その同じ10年を、あなたは自分の病気と闘い続け、私は覚束ないながら、あなたのそばに寄り添って生きてきました。というより、夢が理不尽に断ち切られたことに納得できず、こうして「夫婦の続き」をやってきたのだと思います。「私たちの失われた10年」という言葉が、いつも耳元で聞こえていたけれど、今はもう「失われた10年」と言わなくてもいいのだと私は感じます。 私たちは、それより多くのものを得たという想いがあるからです。

 去年の12月半ばのある日、こんなことがありました。  その日も私はあなたと一緒の時間を過ごすためにホームに行き、あなたに怒られながら日課のリハビリで館内を歩きました(「リハビリで歩く」ことは、あなたの意思ではないから、あなたは時々怒るのです)。そしてあなたが大好きな、若いケアワーカーと出会いました。彼女には98年に録画した『歌う和子』のビデオテープを貸していました。

 ひと休みを兼ねてあなたと並んでベンチに座り、その彼女とビデオテープの話をしました。ビデオの中で、あなたが曲によって歌い方を変えている、という話を。当たり前のことなんだけれど、快活に歌う曲、しみじみと歌う曲、そして静かにひそやかに歌う曲など、いろいろあります。合唱で使う楽譜のなかに、イタリア語(が多いのです)で sotto voce と書いてあるのは、「ひそやかに」という意味ですよね。あなたにこんなことを言うのは釈迦に説法だけど・・・。

 サトウ ハチローの歌詞に中田喜直が曲をつけた『ちいさい秋みつけた』が、そういう曲だと思ったので、私は小さい声で歌いました。「だれかさんがだれかさんが・・」と私が歌い始め、最後の「・・ちいさい秋 みつけた」と歌い終えたとき、あなたの前に向き合ってしゃがんでいた、その彼女が、「びっくりしました。和子さん、“みつけた”と、はっきり歌いましたよ。声は、はっきりと聞こえなかったけれど、間違いなく歌っていました」と、言いました。そして付け加えて、「不思議ですけれど・・こんな和子さんを見ていると、だんだん良くなっているように思えますね」と。

 マーラーの交響曲第2番『復活』という曲をフト思い出しました。あなたの病変した脳の細胞が、無際限に復活するなどとはもちろん思わないけれど、でもね、この頃のあなたを見ていると、こんな重度になっても、人を楽しませる能力があるのかと驚かされます。そしてそれは、あなただけでなく、“いのち”そのものが持つ可能性なのだと思います。年末に女医のMがいる病院であなたは胃カメラをのみ、「人間ドック以上」と彼女が言う検査も無事クリアしました。夫婦ともども、とても健康で、私も心臓にさえ気をつければ大丈夫です。

 冬も半分過ぎました。もうあと3ヶ月でダム湖に行けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

介護日記目次   戻る   ホーム   進む