2001年10月21日 “錦繍の秋”です

 早々と“錦秋の秋”が来ました。例年より冷え込みがきつくて、季節としては少し早いのですが、例年11月初めに最盛期を迎える朱色の紅葉が黄色と混じって、とても綺麗です。雨さえ降らなければ、和子を連れて毎日外を歩いています。 先週は小樽駅の向こうにある手宮公園まで足を伸ばしました。海に面したスロープの芝生に腰を下ろすと、目の前の小樽港の向こうに日本海が拡がっています。少し寒かったけれど、和子はしっかり着込んで、付き合ってくれた仲良しの知人と一緒でご機嫌でした。 先週は稚内から初雪の便りが、そしてその翌日は全道で初霜が降りました。冬はもうそこまで来ている感じです。

 前回も書いたけれど、和子は車椅子を使わなくなって、もう2ヶ月になります。バリアーフリーのホームの生活に慣れることと、日々バリアーに抵抗してリハビリを続けることは、限りなく対極線上にあると実感します。ダム湖園地の歩道は大部分が模造煉瓦が敷き詰められていて、それが隆起したり陥没したりいている部分もあるので、足が煉瓦の角に引っかかり、転んでこぶを作ったこともあったけれど、大過なく日々歩いています。雨で外を歩けない日は、ホームの全部のフロアーを歩き、最後は階段を登ります。片手を手すりに掴まって、右足を手を添えて上げてやれば、左足は自然に上がります。右足が少し重く、重心も右側にかかって常に右に傾くのは随分前からだけど、相談するPTもホームには居ないので、取りあえず何とか歩いています。

 昨日は暖かい土曜日で、たくさんの家族連れがダム湖に来ていました。和子が少しよろけると、すぐ誰かがとんできて、手を貸してくれます。リハビリしているのだから、よろけても自力で立ち直るのを私はいつも待つので、手を貸して貰うのは少し痛し痒しだけれど、見知らぬ人たちの親切は身に染みます。

 病気が進んで出口が見えなくて、私自身がもがき苦しんでいた日々がウソみたいに思えるほど、今は和子と過ごすのが楽しい時間です。  もちろん病気の態様は百人百様だから、その本人にあったリハビリが必要なのは確かだけれど、和子の場合は何と言っても本人の生きようとする活力が源泉にあるのでしょう。  和子はアルツハイマー病で脳に高度の損傷があります。でも内科的には全く問題が無く、毎月歯医者に通って手入れの行き届いた歯を持ち、普通食を全量食べ、夜はぐっすり眠って、とても健康です。そしてここ数週間のはっきりした変化は、言葉が戻ってきたことです。ケアワーカーたちからも言われます。「なに話しているの?」とか、「どうしたの?」とか、前に無くした言葉が確実に戻ってきています。言語回路はとっくに壊れているはずなのに、どこでバイパスを作っているのか。でもバイパスの話は小脳の運動機能や、感情領域の話として言われるけれど、和子の大脳や海馬の部分の失われた細胞が復活したとは考えられず、日々不思議な感動を味わっています。

 10年以上前に録音したテープで、チャイコフスキーの交響曲第1番『冬の日の幻想』と、ピアノ曲『四季』から「10月・秋の歌」と「11月・トロイカ」を和子と聴いています。「トロイカ」は何年か前に和子が口ずさんでいた曲ですが、今は静かに微笑みながらうなずいて聴いています。  別の日、エリー・アメリンクが唱う、シューマンの『女の愛と生涯』を聴きました。この曲は私が学生時代、何度か通った深夜の名曲喫茶で初めて聴き、後に就職してから当時初めて発売されたEPレコードで、若き日のキャスリーン・フェリアが唱ったのを買って、毎日聴きました。シューマンが好きだった和子も唱ったのだろうと思います。

 夕方4時頃迎えに行ってダム湖に連れ出し、戻って夕食を食べさせて8時ごろ早い眠りに入る和子を見届けて帰る、というのが毎日でした。でも秋になって日が短くなったので、今は毎日2回出かけています。天気模様をみながら午前か午後外に連れ出し、夕食前にまた行って8時に眠りに入るまで一緒にいます。8時がホームの門限でもあるのです。  夕食時間の6時の少し前に行ってステーションに顔を出すと、笑いながら「お帰りなさい」と言うスタッフもいます。私も「ただ今」といったりします。2回合わせると5〜6時間になる日もあり、ホームで暮らしているような感じもしています。

 和子が失った物の大きさに呆然とする日々もあったけれど、いまはもう振り返ることはやめました。高度痴呆の患者の和子が、こんなに輝いているのなら、私が深刻になることはないと思っています。東京で病気が判ったのが9年前、そして検査の結果、「発病して5年は経っているはず」と言われ、あとから思いあたることは、その5年以上前からあったから、彼女は少なくとも今「第15病年」です。教科書には若年性痴呆の平均余命は15年と書いてあるのが多いけれど、和子は元気だし、ずっと長生きしてくれるのではないかと、そして毎日やっているリハビリが、やがて寝たきりになる小脳への変性をくい止めてくれているのでは、というひそかな希望もあります。

 今日は国際反戦デーです。全国各地で「テロ反対、戦争反対」の集会が開かれた様子が報じられています。この日は、1966年の10.21 ベトナム反戦デーが最初でした。若い人には何のことか判らないか知れないけれど、総評加盟の54単産が、ベトナム戦争反対の統一時限ストライキを決行した日です。私も教員組合員の一人として、昼休み教室の窓から激励の手を振る生徒たちに見送られて札幌市大通りの集会に参加しました。あれから35年、今からは想像もできない“政治の季節”でした。  でも高校生は子どもではないのだから、社会科の時間にきちんと現代史を学んでいれば、それなりの判断ができる筈で、「政治や国際情勢のことは判らない」という若者が増えた今の方が、余程変です。その6年前の60年安保のときは、私は初任地の浦河高校の教師だったけれど、夜の街頭デモに生徒たちが自分の意志で参加していたのを覚えています。

 そのベトナム反戦デーの2年前、アメリカが「トンキン湾事件」から、泥沼のベトナム戦争に入り込みました。アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇から攻撃されたとして(事実ではなかったようですが)、ジョンソン大統領が議会に戦争遂行の権限を求め、議会は反対2名の圧倒的多数で承認。  1975年のアメリカ軍の敗北・撤退までの12年間、戦死者は北ベトナム・解放戦線側97万名、アメカ陣営22万5千名という、途方もない数です。

 その時と今の状況は酷似しています。アメリカのアフガン攻撃は、いよいよ無差別爆撃の様相です。国際赤十字の事務所と倉庫も被弾して、怪我人もでているようです。アメリカはまた泥沼戦争に入り込んでいるみたいです。  アフガンからの難民が、封鎖されたパキスタン国境を避けて、険しい山岳地帯を越えてパキスタンに逃れてくるニュース映像を見ました。こんな映像を見ると、やっと自分の足で歩けるようになった和子のことを考えてしまいます。戦争があったら、彼女はとても生きていけません。60年前のことを考えると、アフガニスタンの事が、よそ事とも思えません。アフガニスタンで長年にわたって、貧困層を対象に診療活動を続けてきた中村哲医師が、衆院の特別委員会に参考人として出席して、「自衛隊派遣は有害無益」と発言しています。  炭疽菌のテロ騒ぎは、ケニアやアルゼンチンにまで拡がり、国際的な生物兵器戦争の様相さえ示し始めています。パレスチナ和平も、北アイルランド和平も崩壊寸前です。人類は本当に過去の歴史から教訓を得ているのでしょうか。何よりも、弱者も生きていける世界・地球であって欲しいと、痛切に思います。

 教え子の病院薬剤師から電話で、「先生、もう夜はストーブを消さないで」と言われました。胸のアタックがくる季節なので、気をつけています。  さまざまな形で、みんなに心配されながら、今年も10ヶ月が過ぎました。笠智衆の晩年のテレビドラマに、『冬構え』というのがあったのを何故か思い出します。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

介護日記目次  戻る  ホーム  進む