2001年10月1日 “豊穣の秋を迎えて”

 前の『介護日記』を書いてから1ヶ月以上経ちました。9月半ばになったら、“豊穣の秋を迎えて”と書くつもりだったけれど、アメリカの同時・多発テロ事件に目を奪われて、書けないままでした。でもやはり“豊穣の秋”は確実にやってきたし、毎日ダム湖に行って、二人でその秋を満喫しています。

 涼しかった夏が終って、ダム湖の周辺の木々が黄色くなりははじめました。赤くなる紅葉はもっと先ですが、緑の山の斜面が錦繍に覆われるのももうすぐです。夕方の気温は急激に低くなっているので、今年は冬が早いのかも知れません。私の胸のアタックがある季節なので、夜は暖房を入れて暖かくしています。毎日秋の色が濃くなるダム湖の周りの景色を見ていると、やはり1年でちばん美しい季節がきたという実感があります。

 出会った頃和子が教えてくれた合唱曲があります。  大木敦夫作詞・芥川也寸志作曲の混声3部合唱曲『心の種子(たね)』という曲です。昭和26年度(1951年度)NHK全国学校音楽コンクールの課題曲です。和子は中学3年生、私は電話局員で電柱登りをしていました。  3番まであるその曲の歌詞を彼女はソラで覚えていて、私への手紙に書いてきました。その1番は「よきおとずれは・・」、2番は「地のよろこびは・・」、そして3番が「秋 穫り入れは・・」と、“豊穣の秋”を歌い上げた歌詞です。    「はぐくめよ、こころの糧(かて)を、つつましく 充ち満つものに 秋   穫り入れはきたるなり、ああ、人の世のやすらいのため、夕星に祈る者   とならばや」  詩を書いた大木敦夫も、美しい曲を作った芥川也寸志も故人です。でも何かに祈るしかない今日このごろ、「人の世のやすらいのため、夕星に祈る者とならばや」というフレーズが思い出されてなりません。

 事件のことを何も知らないで、毎日ダム湖園地のスロープを歩きながら、さわやかな秋の空気を体いっぱいに受け止めて無心に笑う和子を見ていると、これも天の配剤なのかとさえ思えてきます。

 事件の何日かあと、小泉首相が記者会見をしました。憲法前文の「・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。・・・」というくだりをひいて、アメリカからの要請に答えて自衛隊の海外派遣をすると話していました。小泉氏は勘違いしているのか、知らないフリをしているのか。でも、まるでモノに憑かれたように靖国参拝を言い続けていた、「青年将校」のようだった数ヶ月前と、その時の彼の表情は、まるで同じだったから、確信なのでしょう。一個人が確信を持つのは勝手だけど、こういう“思い詰める人”を首相に持つ国民は不幸です。前幹事長の野中氏も憂慮しています。

 この憲法前文は、「・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚・・・」という後に続くところで、2千数百万人もの犠牲者を出した「十五年戦争」への深い反省に立って不戦平和を誓ったものです。ブッシュ大統領と一緒に記者会見をして得意気だけれど、巻き添えにされる自衛隊員たちは気の毒だと思います。後方支援と言ったって、戦争が始まれば無傷であるはずがありません。航続距離が短く積載能力も足りない自衛隊の輸送機をわざわざ使って、パキスタンに支援物資を運ぶということで、航空自衛隊の幹部も困惑気味、と朝日新聞の記事にありました。  テロで殺された6000人余りの人たちも、復讐と報復の泥沼戦争になりそうな成り行きを、果たして喜ぶのでしょうか。

 湾岸戦争が終わった後、海上自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に派遣されたときのことを思い出します。波止場で出航を見送る家族の不安そうな表情を忘れません。自衛隊員本人は、日常的に命を投げ出す訓練を受けているのかも知れないけれど、家族はそんなことは想定しないで、夫や父は安定した国家公務員だと思っていたのだろうと、その時つくづく思いました。  1950年の警察予備隊創設以来半世紀、自衛隊は変貌を遂げて巨大な戦力になってきているけれど、妻や子は、夫や父親が、「自衛」の名の下に戦争で相手を殺したり命を失う可能性など考えてこなかったのだろうと考えると、平和憲法に守られて戦火に巻き込まれなかった自衛官の家族の反応は、歴史の皮肉かとその時思いました。

 教え子から、「戦争を止めよう!」というキャンペーンの転送メールが送られてきました。事件から3週間が経って、少し冷静な考え方が、アメリカにもその他の國にも出てきたようで、事態が沈静化することを祈るだけです。ユーゴのミロシェヴィッチ元大統領が長い経緯の末、ハーグの国際戦犯法廷で裁かれているように、国際凶悪テロの犯罪者は国際法廷で裁くしかないと思います。  あんまり衝撃的な事件だったから、この3週間「正義のアメリカと、悪の権化タリバン」という図式がまかり通っていたけれど、半世紀に及ぶアメリカの中東政策の誤りのツケが回ってきたと、私はやはり思います。

 9年前の11月初め、私たちは念願のニューヨーク旅行をしました。アルツハイマー病中期症状という診断結果が出た1年後です。ケネディー国際空港に夜着いて、翌日は現地旅行社のワゴン車で半日市内観光がありました。自由の女神像が見えるマンハッタン島最南端のバッテリーパークで、30分ほど時間がありました。目の前のビルの奥に貿易センタービルが建っていました。その年の2月の爆破テロ事件から半年余り、修復が終わったばかりだと、現地旅行社の人が言っていました。帰ってから作ったアルバムに和子の字で、「左端の高い建物は世界貿易センタービル」と説明が書いてあります。  コネティカット州に住む教え子の家に行って一泊してホテルに戻った翌日、ホテルから歩いて10分の距離にあるエンパイア・ステートビルの展望台に登りました。晴れた日の夕方で、ハドソン川を挟んで、ニュージャーシー州に沈む壮大な落日が見えました。展望台の南側に和子と娘を立たせて撮った写真に、2棟の世界貿易センタービルがちゃんと写っています。翌日フライトを合わせて来てくれた教え子のパイロットSに案内されて、フェリーで自由の女神像のあるリバティ島に渡った時の写真にも、マンハッタン島の南端に目立って高い世界貿易センタービルが写っています。6000人を超える人が亡くなった現実に胸が痛みます。そしてアメリカ便を今も運行しているSのことを考えます。  コネティカット州に住む教え子Yが毎週日本語を教えに通っているニューヨークの日本語補習校の子どもたちは全員無事だと、かなり早い時期にニュースで報じられていました。でもその子たちの親は無事だったのでしょうか。

 テレビは殆ど見ないので、9月11日の事件の夜は知りませんでした。深夜教え子からのメールで事件を知り、テレビをつけました。数時間前に起きたばかりの事件に、ショックを受けました。  阪神大震災の時もそうでした。片方は凶悪テロ事件だし、大地震とは比較にはならないけれど、和子がもし家にいたらどうしていただろうと、考えてしまいます。今の彼女は「歩く要介護5」だけれど、視線の移動が殆どできないので、テレビを見るという行為ができるのかどうか。テレビがあっても、こんな生々しいニュースは和子には見せられません。ホームの地下室でビデオコンサートをするときに使うテレビは、アンテナをつけていません。「後藤さんがいらっしゃると、和子さんの表情が全然違います」とスタッフから言われるし、私の顔と声はわかるのですが。

 8月の最後の週から、和子は車椅子を移動の手段としては使っていません。もう1ヶ月余り、彼女は自分の足で歩いています。ダム湖園地のスロープでは、敷石にひっかかって足がもつれることもあるけれど、支えてやれば大丈夫です。よくぞここまで回復してくれたと、私が感動しています。

 寒い日もあるけれど、ダム湖の駐車場が雪で閉鎖されるまで、まだ2ヶ月近くあります。夕方4時頃彼女を車に乗せてダム湖に行き、夕食前に戻って8時の門限までいるのが、夏の間のパターンだったけれど、日が短くなったので、この頃はホームに毎日2度行きます。午後早く彼女を迎えに行ってダム湖に連れて行き、いったんホームに戻って夕食前に再度出かけています。

 昨日は日曜日で、初夏の頃ダム湖で知り合った家族とばったり出会いました。ダム湖から数キロの海岸近くにお住まいの若いお母さんと、小1と中1のお嬢さんの3人連れです。前の時は和子が車椅子でした。ベレー帽をかぶっている私が手塚治虫に似ているとお嬢さんが言ったとかで、声をかけてくださいました。「手塚治虫の本名は私とおなじ治です」と私が言って笑いました。素敵な笑顔で和子に声をかけてくださったのですが、和子が笑顔以外の挨拶ができないので、そっと「重度のアルツハイマー病なんです」とお話しました。  昨日は和子が立って歩いていたので、びっくりなさったのかもしれません。少し立ち話をして、和子を椅子(私のリュックが椅子になります)に座らせて、和子と一緒に写真に入っていただきました。和子の言葉も前のときより多かったし、いろいろお話をしました。和子が元音楽教師で,ヤマハ音楽教室に20年以上勤めていたことをお話したら、その方も以前旭川でヤマハ音楽教室に勤めていらしたこと、「ヤマハの全道の研修会で御一緒したかも知れませんねえ」と、話が弾みました。和子はその間静かに微笑んでいました。写真ができたらお届けすると約束しました。

 いろいろ出会いがあり、心が豊かになる思いで短い秋の日をすごしています。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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