2001年8月24日 “実りの多かった夏の終わりに”

 「豊穣の秋」と言う言葉があるけれど、この夏は私たちにとって、とても豊かな夏でした。ガーナの青年がアメリカから訪ねてきてくれたこと。教会のオルガン演奏会に行ったこと。そして札幌西高OB・OGの第九演奏会に参加できたことは前に書きました。

 23日、珍しく日本列島を縦断した台風が北海道の日高地方に上陸して雨を降らせ、温帯低気圧になってオホーツク海に抜けました。こちらではそんなに大きな被害はなく、台風一過の秋の空です。

 まだ少し残暑は残っているけれど、ダム湖を吹きわたる風は、もうすっかり秋の気配です。晴天の日が多かったので、和子を連れて毎日ダム湖に出かけました。暑いといっても空はもう秋の色で、一点の雲もない空は本当に抜けるようです。  和子は、何かに掴まって立つことは、もうずいぶん前から出来るので、今は歩くことに精を出しています。台風の前日、車椅子から立ってダム湖の水際のベンチまで、私が手を添えて片道600歩普通に歩きました。お盆が明けて、この園地の夕方は、ほとんど私たちだけの独占の世界になりました。  ベンチで座ってしばらく和子と会話をしました。彼女はこの頃何かしらたくさん私に話しかけます。意味不明の言葉の中に少し意味の判る単語も混じります。いい加減に相手をしているとすぐ判って彼女はいらだちますが、きちんと目を見て話そうとすると、会話が通じる感じがする時が何度もあります。こんな会話の仕方もあるのだと、この頃毎日彼女と数時間過ごして、改めて思っています。

 さて、“豊穣の夏”の続きです。  8月初め、2ヶ月振りにヘアダイに連れて行きました。もう以前と違って、今は他のお客さんと一緒の予約時間帯に入れてもらっています。外の階段を上がる時も、靴を脱いでスリッパに履き替える時も、他のお客さんにも手伝ってもらって、ちょっとした大騒ぎです。ダム湖で撮った写真を持っていって見てもらいました。美容師さんは他のお客さんに「見て、見て」と回してくれます。顔は普通でも、手助けが要るし、和子が話す言葉は意味不明だから、何か不思議な光景ではあります。でも、病気と症状を認知してもらった方が私は安心です。

 東京にいる教え子の臨床心理士が、「奥様の体をお湯で拭くときに一滴落としてあげて下さい」と、ラヴェンダーとTEA TREE のオイルを送ってくれました。ラベルはフランス語なので読めないけれど、輸入元の日本語のラベルに、《天然100%(純粋・天然・未加工・未精製》とあります。毎日寝る前に、和子専用のバケツのお湯に落として体中を拭いてやります。何ともいえない豊かな香りがベッドの回りに広がります。テオドラント効果というのだそうですが、和子は幸せそうな顔をして眠りにつきます。

 ニューヨークの隣のコネティカット州に住む札幌西高1973年卒の教え子が4年ぶりに札幌の実家に里帰りしました。高校生と中学生の子どもたちを連れて一家でナガサキとヒロシマもしっかり見て、北上してきたのです。彼女は娘を連れて小樽に訪ねて来てくれたので、和子とみんなでダム湖園地を一緒に歩きました。和子はずっと楽しそうでした。その子にナガサキとヒロシマの印象を聞きました。とても大きなショックを受けたようです。その教え子の夫が航空機のエンジンメーカーで働く技術者なので、一家はその会社があるコネティカット州のアメリカ人社会の真ん中に住んでいるのです。子どもたちは、他に日本人が誰もいない学校に通っています。  これは偶然なのですが、その教え子は和子が出た同じ仙台の大学の同じ音楽科出身です。今は地元のカレッジで日本語科の教師と、ニューヨークの日本語補習校の教師をしています。  「子どもを連れてナガサキとヒロシマを見に行く」という親の「仕事」を私も2度やりました。最初は冬だったのですが、何年か後に私が夏休み中の研究会の途中でナガサキとヒロシマに立ち寄り、真夏でなければあの灼熱のヒロシマとナガサキで起きたことは実感出来ないと判ったので、後に一家で再訪したのです。  私の札幌西高最後の教え子たちが、見学旅行の自由見学の日に京都からヒロシマまで足を伸ばして訪ねたヒロシマの、『原爆瓦の碑』に、「天が まっかに 燃えたとき わたしのからだは とかされた ヒロシマの叫びを ともに 世界の人よ」とあります。  日本に住む日本人の親が、この「仕事」をきちんとやっていれば、今の日本の状況は、もう少し違っていたのではないだろうか、と8月の終わりという季節に私は毎年思います。今年は特にそう強く思います。

 その札幌西高73年卒で私が担任した教え子たちが、“チュー太会”(これは私のニックネームです)というクラス会を毎年か隔年に、この何年かはお盆の時期にやっているのですが、4年振りにアメリカから里帰りした彼女の日程に合わせることになり、第九演奏会の4日後に札幌で開きました。西高では毎年クラスを解体して再編成するので、お互いに知らなかった者同志もいたし、私が担任しなかった元・生徒や、全く教えなかった元・生徒まで現れて、とても楽しい会になっています。今年も20人余り集まって、全員が自分の近況を話し、それをみんながきちんと聞くという素敵な会でした。和子も過去何回か参加した事があり、みんな和子の事を知ってくれているので連れて行きたかったのですが・・・。

 札幌の三角山放送局で、『介護日記』の朗読を始めて7月で満1年が過ぎ、放送回数も20回になりました。95年末から書き始めた『介護日記』は4月までに読み終え、今は大体月末の最後の土曜日、その月に書いたのを読んでいます。その放送局で知りあった若いパーソナリティーがいます。彼女のご両親が無農薬の農場で自家栽培した材料で、小さいレストランを一家で経営しています。偶然そこは私たちが札幌を引き払う前に住んでいた南区の家から歩いて10分ぐらいのところです。和子と一緒に何度も歩き回ったあたりです。  懐かしいので、先月の放送が終わった後、「和子を連れて行きたい」と話したら「ぜひどうぞ」と言われて、お盆明けの日曜日そのお店での昼食と、札幌コンサートホールのパイプオルガン演奏会をドッキングさせました。子どもの学童保育時代の親仲間のお友達を誘って、演奏会の車椅子席も予約しました。午前中にホームに迎えに行き、和子を乗せて出発し、途中でお友達を乗せて南区のレストランに向かいました。  事情を全部判って下さっているパーソナリティーとその御母様に迎えられて食事をしました。もちろん和子は初対面です。一見したところ全く普通に見える和子が、口を開けて食べさせてもらうのだから少し異様ではあるけれど、お店の方たちが判って下さっているのだから、何でもありません。和子に食べさせることはお友達にすっかり任せて、私は食べながらお店の2人とお喋りをしました。だってそこは私たちが14年間住んだエリアで、土地の記憶が忘れがたく残っているあたりでしたから。  和子はゆっくり食べるので時間切れになって、少し食べ残して、お店の方たちに見送られてコンサートホールに向かいました。地下の車椅子マークの専用駐車スペースに車を入れて、大ホールに向かいました。係の人から「何かお手伝いすることがありますか」と聞かれたけれど、「介助が2人いますから」と丁重にお断りしました。このホールは和子がコンサートの会場で耳を塞ぐようになったあと出来たホールなので、和子は初めてです。オルガニストはファッサン・ラスロというハンガリーの人で、1年契約の最後のフェアウェル・コンサートでした。  バッハと同時代のフランスのオルガニスト・マルシャン、そしてバッハという300年以上前の古典派から、近代のフランク、そして名前を知らない現代作曲家まで盛りだくさんでした。和子は自分なりにオルガンの世界に入っていたみたいで、声を出して反応したり、知らない曲に緊張したりしていました。声を出したとき、すぐ前の列の方が気になさったようなので、車椅子を後にずらしました。3人用の車椅子スペースは後が広くとってあるし、私とお友達の席は補助椅子なので、いくらでも対応ができました。最後の即興演奏で、わらべうた の『あんたがた どこさ』が出てきたので、和子は大喜びでした。大ホールに響き渡るオルガンの音量に和子が耐えられるか心配だったのですが、これは大丈夫で、病気になる前の元の和子でした。  同伴してくれたお友達から、「私は今、和子さんからパワーをもらっているようです」とうれしい便りがありました。高速道路が凍結するまで3ヶ月、和子をどこに連れて行こうかと考えています。

 和子は わらべうた も好きだったので、私たちもよく歌いました。『あんたがた どこさ』は私が子どものころ岐阜で覚えた、「あんたがた 何処さ 肥後さ 肥後何処さ 熊本さ 熊本何処さ せんばさ せんば山には狸がおってさそれを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ ああ美味かったとさ」という最後のあたりで、和子が住んでいた宮城とは歌詞が微妙に違ってきます。「せんば山」という漢字があったはずですが、私の記憶から抜けています。  和子と鹿児島を歩いたとき(和子の病気の診断が出た直後でした)、西郷隆盛像の前で、「一かけ ニかけ 三かけて、四かけて 五こけて 橋をかけ 橋の欄干腰をかけ ・・・」を歌いました。これは女の子が手振りや身振りをつけながら歌う わらべうた のようだけれど、どうしてか私は知っていました。そしてこれは歌詞もフシも岐阜と宮城では微妙に違い、口伝えしか伝達手段が無かった時代、どうやって生まれ、どんな方法で伝わったのか不思議でした。もちろん図書館で調べれば判る筈ですが、和子の病気が進んだし、そのままでした。  モーツアルト学者の海老沢敏の労作に『むすんで ひらいて考=ルソーの夢』という本ががあります。本の中に、この旋律がフランスのルソーから始まり、200年かけて世界中に広がっていった、途方もなく面白い歴史が書かれているけれど、「あんたがた どこさ ・・」と「一かけ 二かけ ・・」のことは誰か書いているんでしょうか。どなたかご存知の方がいらっしゃったら教えてください。

 こうしてこの8月、和子は“レストラン・デビュー”と、大ホールの“コンサート(を聴く)デビュー”も果たしました。ホームに帰って報告したら、介護の主任が涙を流して喜んでくれました。翌日それを聞いた夜勤の若いスタッフが「“公園デビュー”はとっくに済ませましたしね」と笑って言いました。和子がダム湖の園地で“公園デビュー”をしたのは1年以上前です。定年間近の訪問リハビリ専門の看護婦さんご夫婦と知り合い、その方が勤めてらっしゃるリハビリテーション専門病院に行って、理学療法室のチーフから[後藤和子様のADL評価]をもらって、それをホームのケアプランに採用してもらったのが去年の夏です。医師は和子がいる前で、「この病気は人格が崩壊する病気で、リハビリなんて無理だと思う」と言ったのですが。和子の「ADL評価」をしてくれた理学療法士が年末に急死されたとあとから聞いて息を呑みました。「こんなに歩けるようになりました」と、雪が融けたら和子を連れて報告に行くつもりでしたから。

 その“公園デビュー”のあと、ダム湖記念館の管理人の方に和子の病気の話をしました。半年間の冬の閉鎖のあと、もう1人の管理人の方(2日交替で半年間無休です)にも話しました。

 奇蹟のような出会いを重ねて、たくさんの人たちから見守られている安心感に支えられて私たちは生きてきました。病気や怪我のため、自分で出来ない事がある人には出来る人や社会が手を貸して支える、それは怪我であれいわゆる難病であれアルツハイマーであれ同じだと、いま私は確信をもって言えます。私がリタイアしたあとで、和子のことに専念できる条件に恵まれていたことはもちろん知っています。出会いと条件と幸運が揃っていました。

 でも和子の顔を毎日見ながら、「人格崩壊」なんて何のことだろう、と改めて思います。

 アメリカから里帰りした教え子から聞きました。 アメリカでは、出来ない人「The disabled 」を、出来る人「 The abled ] が手を貸して支える仕組みだそうです。彼女が妊娠・出産で仕事を休んでいるとき、彼女は 「The disabーled 」だったそうです。手許の英和辞書には「The disabled 」の訳に「無能、不具・・」などという怖ろしげな言葉が並んでいます。  これについては、日を改めて書きます。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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