2001年7月24日 

 東北地方が梅雨明けして、北海道にも素敵な夏がやってきました。気温が25度を超え、少しまだ湿度は高いけれど、和子にも私にも快適な夏です。寒さには直ぐ反応する私の異型狭心症は、この季節は全く心配が無くなります。

 和子の母が亡くなりました。和子にそれを伝える術はなく、宮城県の田舎の実家には、ここからはとても不便なので、本州にいる娘と息子に行って貰いました。いつかはこういう日がくることは判っていたけれど、それが現実のものになりました。92歳で、大往生と言える年齢ではあったけれど、最後の日々が辛かった様で、そして娘の和子の病気のことは意識がなくなる直前まで判っていたということでした。でも和子の素敵な笑顔の写真を送っていたので、安心してくれたのかも知れません。  「親の死に目に会えない」という言い方は、時間が間に合わなかった時に使われる言葉のようだけど、若くして記憶を失って、自分が誰かも判らなくなるこの病気は、本人に親の死を知らせる術がないのです。  ここのところ、ずっと安定した状態で、母の死も知らずに毎日ダム湖園地で機嫌よく無心に過ごす和子は、高村光太郎の『千鳥と遊ぶ智恵子』という詩を思い出させます。和子の病気と智恵子の精神分裂病は別の病気だけれど、『精神保健及び精神障害者福祉に関する法律』という同じ法律で障害の程度が認定されます。

 6月前半の2週間、和子が風邪でベッド暮らしだったことを前に書きました。最初に1度だけ38度を超しただけで、後は37度少しの熱で、普通の人の生活なら寝たりはしないのにと思いました。だって和子は内科的にはどこも悪くないのだから。  「2週間ベッドから一歩も出ない」などという経験は、生まれたときの赤ん坊の時以来経験しなかった異常事態だったと思います。3度のお産も、3度の手術も、長い入院経験は何度もあるけれど、院内は歩いていたし、トイレにも自分で歩いていけました。この病気になってからの、網膜剥離と胆嚢摘出の2度の手術の時は、もちろん私が一緒に付き合ったのですが。  小樽の主治医に報告したら、「筋力が回復するのは、落ちるときの何倍もかかるかも知れませんよ」と言われました。でも毎日ダム湖に連れ出してリハビリをして、どんどん回復しています。まだバランスが悪く、「もうすっかり元に戻りました」とまではいかないのですが。

 和子がベッドにいる間、毎日ベッドの脇でクラシック音楽を聴きながら数時間を過ごしました。毎晩夕食を食べさせ、8時過ぎに家に帰って食事をつくるのもシンドイので、付き添い用の食事を頼んで一緒に食べました。  6月半ば和子は風邪が治ってベッドから解放されたのですが、そんな経験をしたので、彼女が夕食を終えて早い眠りに入るまでの時間を一緒に過ごすのがいいと気付いて、そのあとも毎日夕食を付き合うことにしました。  数十年来食事を作り続けてきたので、後から勘が戻らなくなることを心配もしたのですが、教え子から「先生なら大丈夫」と言われ、津の妹からも勧められたので、そうすることにしました。

 私は多分15歳ぐらいから、「たかが家事、されど家事」と思い続けて生きてきました。男であれ女であれ、きちんと家事を出来ることが“自立”の最低条件だと思ってきました。  和子が風邪のあと“社会復帰”して以来1ヶ月余りになります。そんなに長い間食事を作らなかったのは結婚以来始めての経験ですが、今は和子と過ごす時間を優先することにしました。

 和子が“社会復帰”したあとは、雨さえ降らなければダム湖園地のスロープを、私が支えながら毎日数百歩は歩いています。私がリハビリをしなければ、危うく1年前の車椅子に座ったきりの状態に戻るところでした。その時は歩けなかったので、オムツを当てられたままでした。  今は手を取ってトイレに連れて行けば、手すりにつかまって自分の足で立てるので、衣類の脱着と後始末だけしてやれば、自分で用を足せます。時々失敗はあるし、夜はオムツになるのは仕方がないのですが。

和子は下の奥歯が左右あわせて5本無いので、そこに入れ歯を入れています。そのほかに4本が虫歯で抜けているので、今ある自分の歯は19本です。Dr.は「入れ歯を支える歯が弱っていることと、出し入れが楽なように、金具は18Kを使っています。普通の銀色の金属よりも柔らかく、生物学的に生体に近い」と言っています。入れ歯は、とても良くフィットしているので具合が良く、食事に出る沢庵や、おかずの固いタケノコも、コリコリ音をたてて美味しそうに食べます。

 4年前(1997)の9月から12月まで、近くの老健を毎週末ショートステイで利用したことがあります。入れ歯は食事が終わったあと必ず外して貰うように頼んでいたのに、頻繁に壊れました。週の初めに私が迎えに行くと(個室に居たのですが)、和子が壊れて2つになった入れ歯を両手に持って呆然としていたり、「ベッドの中から出てきました」と、申し訳なさそうにスタッフから壊れた入れ歯を手渡されたり、たった4ヶ月の間に5〜6回も作り直さなければなりませんでした。その度に和子を連れて、車で30分かかる歯科の主治医のところに連れて行かなければなりませんでした。  その頃和子は混乱期のさ中で、連れて行って歯型をとり、何日かして出来てきたら合わせに行かなければならず、ほかの患者さんと同じ待合室に居るのも大変で、とても、とても苦労したことを忘れません。

 先日そのDr.が午後休診の日、和子に会いに来てくれました。一緒にダム湖に行って遊びました。そのDr.は和子よりふた回りも若いのだけれど、2人とも数十年昔の少年と少女に帰ったみたいで、とても楽しそうでした。  「男女席を同じうせず」の時代に育った私は、少年時代に女の子と遊んだ経験は無く、ちょっぴり羨ましかったけれど、カメラマンに徹して素敵なショットを何枚も撮りまた。和子が重度のアルツハイマー病などとはとても見えませんでした。

 ついでに書けば、私は戦時中毎夜空襲のさなか、灯火管制下で真っ暗な防空壕に入るときに、天井の丸太にぶつかって上の前歯2本をへし折り、他に1本だけ虫歯で抜いているので、今も25本が健在です。戦争の後遺症が無ければ、欠けているのは1本だけです。  だから私はもちろん和子も、健康な歯で普通食(これは施設で言われる“キザミ食”や、“つぶし食〈極くキザミ食〉”に対応する言葉です)を食べることができることを、幸せだと思っています。

 「固い食物を、丈夫な歯できちんと噛んで食べる」ことが脳の発達に密接にかかわることは、子育てをした経験のある人にとって常識でしょう。だったら事実上終の棲家になる特養ホームだって同じ事で、このことは脳の老化、ひいては体の老化をを防ぐ為に、最も重視されなければならないことでしょう。入所間もなく、知らない間に和子の食事が“キザミ食”にさせられたことに抗議して普通食に戻してもらったのは、子育て時代からの、そういう共通な認識が私たちの間にずっとあったからです。今はもう物言えぬ和子を代弁して言ったことでもあります。

 和子の状態が安定してきたので、去年の秋から1年半ぶりに歯科医院通いを再開しました。最初はDr.が時間外に残ってくれていたのですが、前回から普通の予約の時間帯に入れて貰っています。和子が大好きな歯科衛生士が、念入りに歯垢取りやブラッシングをしてくれます。何人もいる歯科衛生士達も、とても親切です。歯を健康に保つことが、体の健康の基礎だと私は思うので、毎月連れて行きます。  そして今は、毎日私が夕食を付き合い、食べ終わったら念入りにブラッシングをし、歯間ブラシを全部の歯と歯の間に入れます。それでも私が付き合うのは1日1回だけだから、毎月歯科医院に通います。私は自分で磨けるから2ヶ月に1回ですが。

 2年前の6月、今の特養ホームに入所したとき、事前の打ち合わせで相談員のソーシャルワーカーに、「食事は“全介助”で、そして“普通食”を」と話しました。在宅の生活でそうしていたし、このホームで利用していたショートステイでもそうだった筈でしたから。しかし、その話が介護の現場に伝わっていなかったらしく、数ヶ月で体重が42キロから38キロまで減少しました。  “全介助”でなく“半介助”で床にこぼしていたことが、最初のケアプランの会議に出て判りました。和子は栄養不良だったのです。食事も“普通食”でなく“キザミ食”にされていました。もう一度「“全介助”で、そして“普通食”を」と注文を出しました。  体重減少はそのあとも続き、年が明けて37キロ台まで減少したので、カロリー補給剤を食事の時に入れてもらいました。そして44キロまで回復してカロリー補給をやめました。それ以来和子は普通食を全量摂取することで、45キロ台を維持しています。彼女は身長154cm・体重45kgで、ホルモン療法を試みていた一時期を除いて、40年来変わらない体調を保ってきましたが、今はその状態に戻りました。

 今年の1月1日付けで、和子の介護保険の再認定がありました。最初から「要介護5」で、病気そのものは進行しているのだから、良くなるはずがないので当たり前ではあるのですが。先日ケアマネージャーと話した時、このホームで「要介護5」の方は6月1日の時点で22名、全体の15%だと聞きました。和子以外の21名の方は全員寝たきりだそうです。ホームから年に数回発行される「便り」が届きました。150名の入所者のうち、3分の2の方が“キザミ食”か“つぶし食”だと書いてありました。前に和子のことを「歩く要介護5」と書いたけれど、どうやら「トイレで自力排泄できて、“普通食”を食べる」唯一の「要介護5」でもあるようです。  食事の話をしたときケアマネージャーは、「要介護度と咀嚼力・嚥下力は別ですからね」と言いました。当たり前のことながら、改めて納得しました。そして2年前の秋、私が気付かないでいたら、和子の咀嚼力も嚥下力も低下していただろうと、改めて思いました。

 嚥下力についてもう一つ。和子がまだ在宅でデイサービスとショートステイを利用していたころ、カプセルや錠剤をなかなか飲みにくい時期がありました。混乱期のさなかで、「カプセルや錠剤を飲む」という行為が彼女にはよく判らなかったのでしょう。調剤薬局でその話をしたら、「Dr.からの指示があれば、粉にすることは出来ますよ。相談してみましょう」と言ってDr.に電話をしてくれました。その結果は、「粉にすることは最後の手段にしましょう」というDr.の返事で、その後も何とか努力してカプセルや錠剤のままで飲ませてきました。  いま毎日夕食を食べさせるようになって、和子の薬が全部粉にされていることに気付きました。今はカプセルはなくて錠剤と粉薬だけなのですが、普通食をきちんと食べる和子が錠剤を飲めないはずはないと気付いて、粉にするのをやめて貰いました。介護のスタッフの1人と話したのですが、カプセルも錠剤も、胃の中に入ってから溶ける時間が当然計算されているはずで、それを粉にしてしまったら、薬効が本来のものと違ってくるのだろうと。今まで気付かなかったけれど、2年前の入所の時から粉にされていたんでしょうか。「粉にすることは最後の手段にしましょう」あのころ主治医から言われたことが今思い出されます。吸い飲みが付いてきたのも断って、カップを使って番茶で飲ませています。  食事もお盆に付いてくるスプーンで最初は食べさせていたのですが、何かチャップリンの『モダンタイムズ』を思い出したので、先の細くなった箸を付けて貰って、それで口にいれてやります。自室でゆっくり時間をかけて食べられるので、そんなやり方をしています。  夕食を毎日、時々昼食も食べさせるようになって1ヶ月余りですが、いま気付いたことは、自分の手を使って食べることが出来ない彼女に、その手の代わりを私の手がやるだけで、あとは私と同じ健常なのだと思えばいいということです。

 もっと早くそれに気付いて、私が時間を割けば良かったのだけれど、以前の部屋が食堂の真ん前で、数十人の人達が食べた後の片づける音、食後すぐスイッチが入るテレビのかん高い音など、私自身がストレスが溜まりそうな環境でした。

 和子の日常をもっと書きたいけれど、長くなるので「以下次号」にします。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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