2000年11月18日 

 まとまった雪が降りました。気温が低くて降った雪が融けないので、一面銀世界です。滑り止めの付いた靴を履いて、寒くないように身支度をしてダム湖園地に行きました。電光掲示板の温度はマイナス1度、誰もいないスロープの数センチの新雪を踏んで二人で歩きました。「雪ニモマケズ」です。私も和子もインフルエンザのワクチンを打ちました。

 和子は11月の誕生日で64歳になりました。何かお祝いをと思ったけど、彼女はもう自分のことが何も判らないので、花束を奮発しました。ホームに行って花束を見せ、「ハッピバースデー・トゥー・ユー」と歌ったら喜びました。何のことかは判らないのだろうけれど。外は吹雪で外出も出来ず、花と彼女を入れて写真を撮りました。彼女は4人部屋で、寝るとき以外はデイルームに居るので、寝るときだけでもベッドサイドの花が目に入るでしょう。

 去年6月の入所時に42キロだった和子の体重が数ヶ月後に38キロまで減り、ホームにカロリー補給の注文を出して今年初めには元の体重まで回復しました。3月・4月は車椅子生活でした。その間に足は針金のように細くなりました。5月からホームでのリハビリ歩行を組んでもらいました。特別養護老人ホームには理学療法士は配置されいないし、リハビリの施設もありません。6月からは毎日私がダム湖園地に連れ出すようになって元気になり、体重も徐々に増えて今は以前の彼女の標準体重の45キロに戻りました。  4年前に胆石が見つかって胆嚢の全摘手術をして以来、体重がなかなか元に戻らなかったのですが、4年たって彼女は内科的には以前の健康体に戻ったような気がします。病気そのものは随分進みましたが、全く歌わなくなっていた歌も少しずつ口ずさむようになり、言葉も少し戻ってきています。彼女が話す言葉は随分前から意味不明ですが、「おいしい」とか、薬を飲んで「苦い」とか、「寒い」という言葉もこの頃出ます。言語回路はとっくに壊れているのだろうから、この頃彼女が発する、断片的ながら「意味のある言葉」は脳の何処に残っていたのか、そしてどんな回路が繋がったのかと不思議です。今の“脳学”ではミクロの細胞レベルでは何も判ってないようだけれど、下半身のリハビリが多分脳の活性化も促しているのだろうと私は実感しています。

 先回、和子がヴィヴァルディの『四季』を聴いてリズムをとっていたことを書きましたが、別の雨の日、応接室で同じテープを聴いていたら、『秋』と『冬』の楽章を全部正確にメロディーをたどって歌いました。

 今年の大きなニュースで、ヒトの遺伝子が殆ど解読できたと報じられましたが、アルツハイマー病の原因遺伝子の一つと言われる14番染色体の研究が進み治療法が見つかるのは、まだ10年以上先だろうと一人の学者が言っていました。治療法が見つかっても、萎縮して無くなってしまった(その空間の部分は脳漿という水だそうです)和子の脳の細胞は再生しないのだし、そんなことを考えると現実は辛くて悲しいけれど、毎日会いに行くと声をあげて楽しそうに笑う彼女に慰められています。

 今年の大きなニュースで、ヒトの遺伝子が殆ど解読できたと報じられましたが、アルツハイマー病の原因遺伝子の一つと言われる14番染色体の研究が進み治療法が見つかるのは、まだ10年以上先だろうと一人の学者が言っていました。治療法が見つかっても、萎縮して無くなってしまった(その空間の部分は脳漿という水だそうです)和子の脳の細胞は再生しないのだし、そんなことを考えると現実は辛くて悲しいけれど、毎日会いに行くと声をあげて楽しそうに笑う彼女に慰められています。

 今年も正倉院展が奈良の国立博物館で開かれています。和子の病気が判ってから、彼女に促されて2度正倉院展を見に行きました。音楽も美術も文学作品も、私と和子が身につけてきた文化は欧米のものが多かったけれど、二人とも古いお寺と仏様が好きでした。オフシーズンに、観光バスの行かない奈良のお寺を随分歩きました。二人とも仕事を持ち子育てが終わってなかったので、「退職したら行こう」というのが合い言葉でした。仕事をやめて間もなく彼女の病気の診断が出たので、奈良の古寺巡りは和子の発病後のことです。東京の2年と小樽に来て2年、4年の間に外国旅行を3回、奈良の古寺巡りを数回しました。ついこの間まで和子と一緒に旅をしていたような気もするけれど、それが出来なくなってまる4年経ちます。

 2年前の台風で大破した室生寺の五重塔の修復が終わったそうです。近鉄電車と路線バスを乗り継いで、室生寺を訪れたのは5年前の9月末でした。いつも利用している旅行社から電話があり、関西空港往復1泊ホテル付き一人29800円という格安チケットがあるというので出かけました。  秋の行楽シーズンが始まる前で、着いた日は西大寺から秋篠寺まで日照りの中を歩きました。堀辰雄が『花あしび』という作品の中で、「このミュウズの像はなんだか僕たちのもののやうな気がせられて、わけてもお慕わしい」と書いている技芸天女は、ちょっと首をかしげて微笑んでいました。他に客は居なかったので、しばらく私達と技芸天女だけの時間を過ごせました。電車で奈良に行き、興福寺の宝物館で3年ぶりに阿修羅像に出会いました。  2日目は電車とバスを乗り継いで室生寺に行きました。急な鎧坂を上がったところに五重塔と金堂がありました。女人高野と言われる故か、柔らかい感じの優しい建物の中に、釈迦如来立像を初め沢山の仏像がありました。  バスで室生口大野駅に戻り、駅近くの川原の崖に刻まれた磨崖仏と川越しに対面しながら、奈良の駅前で買った柿の葉寿司を食べたのも忘れません。帰りは長谷寺に寄りました。  仏教信者ではないけれど、微笑む御仏の前に座っていると、抱え込んでいる不安が少し癒される気もしました。そんなとき和子は不思議に静かでした。いま思えば、彼女も何かを祈っていたのかも知れません。室生寺の鎧坂も長谷寺の400段もある長い登廊も健脚な和子は平気でした。何よりも旅が好きでした。「今度は雪の室生寺にも来ようね」と話していたのは夢になってしまいましたが。

 今年もいろいろあったけれど、たくさんの人達に見守られて、また1年無事に過ぎました。インターネットのお陰で、見知らぬ方からの励ましのメールも届きます。この頃は和子が元気になって、笑顔が続くようになったのが何よりも喜びです。

 来年は21世紀、世紀が変わっても別にどうということはないのですが、1930年生まれの私には、いささかの感慨があります。

 『介護日記』を印刷したのをお送りする相手の方がたくさんいらっしゃるので、今年のメールマガジンはこれで終刊にします。また年が明けたら続きを書きます。

 どうか良いお年を。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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