2000年5月3日 憲法記念日
コブシが咲いたら“春の便り”を、と思っていたのですが、今年は春の訪れが遅く、網走からは4月末の大雪の便りです。コブシはもう少し、桜はゴールデンウィークのあとになりそうです。
私のホームページが出来たのが去年の1月1日、そのあとパソコンを買ってアクセスができ、そしてメールが何とか出来るようになったのが2月中旬です。でも原稿をパソコンで書けるようになったのは5月半ば過ぎです。 去年の憲法記念日は原稿を書きなぐって、東京の<御世話人>にファックスで送り、初校、再校、3校までファックスでした。今は一日最低1時間はパソコンに向かわない日は無い生活です。 「電脳生活」という言葉があるそうですが、私にはそんな実感は無く、指一本で書く道具でしかありません。 でもインターネットの世界の奥深さと広さと途方もない便利さに魅せられて、もう生活必需品です。 
ホームページのお陰で、見知らぬ方からのメールがたくさん飛び込んできます。 近くは札幌から、遠くは地球の反対側のアメリカからです。私は英語を自由に読み書き出来るわけではないので、「日本語環境のマシン(パソコン)」をお持ちの方からだけですが。
ホームページの掲示板に寄せられたコメントから、Yさんのお便りの一部を紹介します。 お母様が40代でアルツハイマー病を発症し、昨年の夏から寝たきりになってしまい、その上、眼科医の誤診ー緑内障を白内障と診断ーで両眼失明されたというのです。 まだ治療法がないこの病気にかかったことの重さだけではなく、誤診や介護の質の低さが、この介護保険制度が発足した日本の現実の姿だと実感します。
きょう54回目の憲法記念日
、1947年施行の日から満53年です。 その日私は旧制工業学校の4年生で16歳でした。戦争が終わった翌々年、徴兵世代だった私の兄達は全員無事に帰り、“銃後”の家族も全員無事でした。 戦死・戦病死(ビルマや南太平洋の島々で、事実上の餓死が何十万人だったと後になって知りました)・爆死・結核死・栄養失調死がざらだったあの時代、きょうだい7人と両親と祖母の10人、一人も欠けないで生き残ったのは奇蹟でした。
平和憲法に守られて戦後の55年間、日本に戦争はなかったけれど、その憲法で謳われた「健康で文化的な生活」は果たして実現したのかと、和子の生活を毎日見つめながら、今あらためて思ってます。
和子は3月初めから車椅子生活です。しばらく厳しい表情が続いていたのですが、いまトンネルを抜けたのか、明るさが戻りました。 ここのところ毎日笑顔がいっぱいです。 もう歌わなくなったけれど、私が応接室でかけるCDやビデオで、モーツアルトやバッハに併せて指先で正確にリズムを刻んでいます。彼女の心の中の音楽世界は健在です。
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