古堂のことと、十勝の山のこと


 古堂が逝って2年たつ。7月の第1日曜日に、近親者が集まって3回忌法要をした。そこで、弘前大のワンゲルの仲間たちが、彼の遭難現場の岩にはめ込んだレリーフのことが紹介され、写真が皆に披露された。

レリーフ
写真提供: 古堂俊さん(直哉さんのお父さん)

 去年の弘前大ワンゲルの機関紙“遊鳥”に古堂のお父さんが手記を寄せ、その最後に「山行には危険はつきものである。ワンダーフォーゲル部の皆さんには、息子の事故を他山の石として、私共が受けた大きな打撃を御両親に与えることのないよう細心の注意をもって行動していただきたい。心からのお願いである」と書かれている。
 3回忌法要の時、お父さんは感きわまって絶句された。そして、顧問だった俺に発言をということだったが、俺も感慨が言葉にならず、山の手小学校の養護学校にかかげられている彼のSLの写真の話をした。以前にも書いたが、短い18年の人生の間に、他人の何倍も燃焼し生き抜いた彼の生の証が、今力強いSLの写真となって、体の弱い子ども達をはげましつづけていることを。
 山岳部の1、2年生は彼を知らない。
 わずかに見知っている3年生もこの学校祭を最後にして部活動を終る。この熊笹で古堂のことにふれる機会はこのあと無いだろうと思う。
 今年の3年生の最後の山行は、うちの山岳部としては初めての十勝縦走になった。夏山としては山岳部が行く程の山ではない、という考えもあって今まで足をふみ入れたことがなかったが、3年の運動不足、1年の練習不足もあって東大雪から十勝へ変更した。しかし十勝には十勝の良さもあり、特に富良野岳の稜線のみごとさと、お花畠のうつくしさは今も脳裏から消えない。5年前の冬、田中の指先を凍傷でくさらせ、俺の足の指の感覚を2ケ月もなくさせたあの厳しかった三段山も、夏みるとウソのようにうららかだ。日程が許せば富良野岳から原始ケ原への湿原へ下るのもいいだろう。そこにはその名の通り原始のままの湿原と、お花畠が開けているそうだ。
 2年生が欠けて1年生が3人という山岳部の今後の見通しはなかなか厳しい。国全体としては“ゆとりある教育”が叫ばれながら、現実に高校生がおかれている環境は“ゆとり”どころではない。他の生徒が勉強している(筈の)土・日曜日に山に登るということをつづけていけるかどうか、2年生がいないという大変さもあるが、こつこつ山行をつづけ、山を身につけていくしかあるまい。

(22号 1980年)

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