遭難


 去年の入部は9名、今年は2名でうち1名はすでにいない。親も世間も受験のことに神経をとがらせざるを得ないこの頃の風潮だから、西高のような、いわゆる受験校に、いまだに山岳部が存在していることも不思議なことかもしれないが、それにしてもやはり今年はさびしい。
 1年まえ、前々部長の古堂の遭難死という、部にとってはたいへんなショックな出来事があり、しかしそのショックの中で、ともかく学校祭をのりきり、「熊笹」の追悼特集も出し、そして秋9月に、3年とOB・OGによる岩木山追悼登山で一応のしめくくりをつけた。それらのもろもろのことが、部の団結にひとつの役割を果たしたことは言えるだろう。オレは死後の霊魂を信じはしないが、しかし、ひとつの死が、これだけのものをあとに残したということだ。以後、去年いっぱい病気によるやむを得ない退部はあったけれど、脱落者はいなかった。
 今年の遠征は本校としては久しぶりにクヮウンナイ川をやった。9年前、雨の中をぐしょぬれになりながら必死につききったナメは、今年は沢歩きの醍醐味を十分に味わわせてくれた。札幌近郊では決してみられない大きい沢とナメ。はじめて行って、あの天気に恵まれた皆はしあわせだろう。しかし、その翌日のガスと雨の中の尾根歩きは、 天候の急変による山のきびしさをおしえてくれた。われわれが、かろうじてわかる踏みあとをさがしながら歩いたロックガーデンの中の縦走路を、何日かあとにあの2人の父子が、やはり(たぶん)ガスの中で道に迷い、後に2人共も死体として発見されたのだった。現場は、われわれが縦走路にとりついたあたりから1qもはなれていない、すぐ南側の東斜面雪渓だ。
 死体があいついで発見された当時、おれは東北に居て、現地の新聞の片すみにのったニュースしかみていないのだが、おそらくはガスの中で、コースを見失い、まよった末、北沼東側の急斜面に出て雪渓の上を滑落したのではないか。西高では毎年夏、一般生徒に呼びかけて、サマーキャンプを実施し、今年はもう15回になる。「大雪山は天気がよければ、気楽な散歩の感じもするが、いったん天候が悪化すれば生死にかかわることになる」 とは、いつも事前のミーティングで参加者に話していることだが、どういうものかここ十年ばかり、雨にもガスにも出くわしていない。
 しかし今度の遭難死事件はやはり、大雪山のおそろしさをまざまざと思い知らせてくれる結果になった。
 去年の遠征で、トムラウシ南面の1800m地点で2昼夜風雨にたたかれた経験をもつ2年生以上の部員は、あのあたりの天候悪化の時のおそろしさを身にしみて感じているだろう。大雪山で、ここ何年か絶えてなかった今度の悲惨な事故は、優秀な血液学者と、前途ある中学生の生命をうばった。このことからわれわれは何を教訓としたらいい?
 歩道が完全に整備され、3時間も歩けば必ず山小屋があるという本州の北アルプスなどとはちがい、北海道の山、特に雪渓が残り、ロックガーデンが多い大雪山は、視界が悪くなると、その様相を一変する。岩の上にペンキをぬり、雪渓の上にベニガラをまけばコースを見失うこともないのだが、登山人口もさして多くなく、かつて遭難事故もほとんどなかったということで、コースとしての整備は表大雪の一部を除いておくれている。そんなところでガスにまかれたら、余程コースに自信がない限り、やたらに歩きまわらないことだ。テントを張って停滞するしかない。そのことさえ守っていたら、今度の事故は防げたのではないか。
 本州の山を多く登り大雪山が2度目という死者に、注文するのは気の毒だが、やはり防げる事故は防ぐのがスポーツ登山の鉄則だろうから。去年トムラウシの南面で2昼夜過ごしたあと、風雨の中をふたたび同じ道を引き返したのも、残念ではあったが、登山の安全を考えれば正しい処置だったと思う。最後に、退部者をほとんど出さないできたわが部だが、部員全体の体力は貧困だ。遠征の最後、化雲岳から天人峡までの12キロの道で、オレはつくづく思った。後継者難もあるが、現部員だけでも、この秋、体力を充実させることを心がけ、きたる冬山にそなえてほしいと心から思う。

(21号 1979年)

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