理科でできる平和教育

― いま、ストレートな問題提起を ―


 他教科や教科外活動に比べて,理科での実践は非常に少なく,立ち遅れを感じます。教科のもつ性質上,実践しにくい面は確かにあるわけですが,何よりも,理科教師自身が意識的に平和教育を真正面から取り上げてこなかった罪が,大きいのではないでしょうか。「基礎的なことをしっかり身につけさせることが,とりも直さず平和教育につながる」という意見もありますが,何といっても教師からのストレートな問題提起に勝るものはないだろうと思います。

(1)「思いのたけをぶつければ生徒は変わる」

 先ず,室清水の後藤先生が前任校(札西)で行った感動的な実践を紹介します。
 先生は,授業(物理)が最後の原子物理学に入ったところで,『キューリー夫人伝』のラジウム発見の一節を生徒に読んで聞かせます。それは,夫妻が清貧の中で三年間の苦闘の末,ついにラジウムをみつけだすという感動的な場面であると同時に,その人類に初めての姿を見せた原子の世界が,50年後には人類を破滅に導く爆弾となって君臨することになる,正に運命的な出会いなのです。そして先生はこの50年間の変貌を,怒りを込めて生徒に語りかけるのです。
 学年の終わりには,「核開発の歴史と理論」という特設授業を組み,原子爆弾の物理的メカニズムと日本になぜそれが落とされることになったかという経緯,そしてその後の米ソ2大国を中心とする開発競争の実態を説明しています。それらの授業で,何をどのように生徒に語りかけたかは,以下の生徒の感想文の断章を読めは,一目瞭然でしょう。

 私が先生から学んだものは,物理だけではありません。それは他から学び得ないもの———生命の尊さ,人間の愚かさ,歴史の重み,戦争の罪,そして将来の私たちに課せられた課題(中略)見えなくなってしまいそうな多くのことを,目をそむけてしまいそうな悲惨な情景を,“頭など通さずに直接心に”伝えてくれました。(中略)
 “時がたてば”式では済まされないことがあるということを教えてくれた唯一の先生です。

 後藤先生は,「世の中とかかわりなく生きているかのような現代の高校生でも,こちらが思いのたけ(もちろん教師がそれをもっていることが前提ですが)をぶつければ,きいてくれ,心も開いてくれるものだ」と実感し,「“何のために”“どう生きるのか”を知らない生徒に,“生き方を問う”やり方は自分の思いのたけをぶつけることしかないと思うのです」と述べています。
 そして,その「思いのたけ」をぶつけられた生徒十数名は,見学旅行中,京都での自主研修で,何と広島まで足をのばし,平和への貴重な体験を積極的に求めるまでに成長していくのです。(その経緯については,21〜23ページに詳細が報告されているので参照のこと)
 理科の中でも特に物理は理屈っぽいことで嫌われがちな科目ですが,教師が人間味豊かに,そして熱っぽく未来を語ることによって,三無主義とも五無主義ともいわれる高校生が,現状を憂う人間として成長していくことを後藤実践は物語ってくれます。

(北海道高教組平和教育推進委員会編「平和教育の手引き」第一集・1985年より)


「北海道でとりくんだこと」 もくじ