古堂の死に寄せて


 古堂が逝った。7月9日の夜電話で知らせを受けた時のショックはまだ癒えはしない。部長に連絡を依頼した直後、泣きじゃくって電話をしてきた同期の連中、翌日やってきて目を真赤に泣きはらして「古堂が帰るのを楽しみにしていたのに。弘前なんか行かなければよかったんだ。」と絶句し、うめいた男達。
 遺骨の帰還、お通夜、告別式、その間に何人の男や女が、彼のことをきいてオレを訪ねてきただろう。告別式の夜、三角山に登ってケルンを積み、山の歌を唱って彼をしのんだ男や女達、あの時植えた桜の苗木は元気に育っているかしら。
 「熊笹」20号を彼の追悼の記念号として編むことになった。受験を前にしながら、9月の連休に岩木山に登り、また彼の最後の地をたずねるという3年生の部員やOB・OG達の熱い思い、山の仲間達のきずなの強さと、古堂の残したものの大きさを今オレは思う。
 “履修科目「ワンダーフォーゲル部」・担当教官「岩木山」”
 これは弘前の彼の部屋の前にはってあった履修カードだそうだ。あのまじめそのものだった彼にはめずらしいジョークだが、その「岩木山」に彼の追悼の為に登ろうとは。
 この夏のサマーキャンプ。去年彼が足跡を残した大雪の北鎮のピークに、彼の女友達と、後輩の部長がケルンを積んだ。半月後、山岳部の後輩達は、やはり彼が去年足跡を残したトムラウシのいただきに立った。雲の中、ブロッケンの妖怪を見た頂上は、今年は見はるかす360度の展望が楽しめた。
 口数の少ない、しずかな、しかしすごく気がつく、神経の細やかな男だった。ひかえ目ではあるけれど、彼のそのひととなりが、彼に接した人々にかくも熱い思いを抱かせるのだろう。弘前大のワンゲルは、この夏の全ての山行を絶って彼の喪に服すという。「熊笹」にも弘前の友人達が編んだ追悼文集にも、そのことはあらわだ。残された者の悲しみは大きい。しかし、18年の短い生涯を彼の如くゆたかに燃焼して生き得た人は幸せだと、オレは心から思う。3年前の「熊笹」17号にオレは「1年生の4人は続きそうだ」と書いた。予想通り(その後の入部1名を加えて5人)卒業まで山行を続け、大学へ入ったあとワンゲル、山岳部と皆それぞれ活躍をしている古堂の同期生達。
 去年4月、5人が3年生になり、そろそろ、日常のトレーニングから遠ざかろうとする頃、入部したのが2年の男子2名(佐藤、一宮)。しかし1年生は入ってこない。山岳部は辛くも廃部をまぬがれる。当然3年5名、2年2名で学校祭展示。「熊笹」発行を乗りきり、秋から冬にかけての計画。「冬山どうする?」というオレの問いに、古堂は「僕達がやるしかないでしょう。」と言う。そして11月に女子2名入部。冬を迎えて彼女達は山へ行くと言う。かくて古堂と田中は3年の冬山まで現役として活動という前代未聞のことになった。やがて彼らは卒業し、残ったのは新3年生4名だけ。男子2名は1年足らず、女子2名はわずか数カ月というキャリア不足ではあっても、やはり3年生で、いつまでも活動していられない。しかし、どういうものか(3年生達はオルグの結果だというが)、4月から1年生の入部があいつぐ。6月までに1年8名、2年2名。古堂が弘前にたつ前、部屋で1年の2人が会っているそうだ。その他は彼と面識がない。しかし、お通夜、三角山での追悼、ケルン積みと、面識のない1・2年生達は誠実に働いた。そのことにオレは思いを深くしている。
 やがて夏山遠征。予備山行であらわれた力量不足に対応して当初の石狩3山コースを変更せざるを得なかった。13人中新人が9名という状況では力不足も否めず、トウラウシ温泉からの短いコースになってしまったが、しかし2晩にわたる風雨との遭遇もあり、いい経験だった。
 このあと学校祭が終り、3年生とOBによる岩木山行がすむと、山行は1・2年生だけになる。はじめての冬山が来る。冬山トレーニングをどうするか、オレ自身の多忙もあり、OB達の力も借りて、ぜひ実りあるものにしていきたいと思う。

(20号 1978年)

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