介護日記

 

 2003年10月13日 秋色濃い札幌から

 異常気象のニュースばかりだった夏が過ぎて、やっと秋の便りが書ける季節になりました。札幌の秋は短く、あっというまに初雪の便りがきますが、ここのところ、お天気も安定して、車椅子を押して散歩の毎日です。円山公園も、道立近代美術館の前庭の林も、紅葉が深まって、とてもきれいです。

 夏の間、教え子たちや知人が何組も訪ねてくれました。そして先日、横浜に住む大学の時の学友が、用事の途中訪ねてくれました。1953年入学の時の「わだつみ会(日本戦没学生記念会)」の仲間ですから、ちょうど半世紀の付き合いになります。横浜に帰った彼から手紙がきました。「先日は和子さんの看病の様子、つぶさに見せていただきました。・・・・何か看病する事が嬉しそうですらある貴兄の姿を見るにつけ・・・・」と書いてきました。
 無意識でやっていることが“嬉しそう”に見えたというのは、私が(いや私たちが)もらった勲章かも知れないと、読みながらひとり笑いしました。病気が判ってからもう11年だから、彼女がだんだん自分でやれることが少なくなっていく経過を一緒に過ごし、私の仕事量を増やしてきたわけだから、面倒だとか、辛いとか意識したことはありません。家事そのものは、独身時代から生活の一部になっていたし、「経済的にも生活的にも自立した男と女が結婚して、精神的に補いあえるものがあれば」というのが、私たちの結婚の前提条件でした。その「補いあえる」ものは、私たちにとって、クラシック音楽であり、絵であり、文学や芸術であり、そして生きていく価値観でした。それが無ければ生活が成り立たないものでした。

 「生活的に自立する」ということは、男性の場合、40年前の日本では珍しいケースだったかも知れないけれど、これは私が子どもの頃、台所に入り浸って母親の手伝いをしたのがベースになっているから、“男子厨房に入るべからず”と言われた時代に、私の“修行”をさせれくれた母親がもらうべき勲章でしょう。“修行”と書いたのは冗談で、私にとっては未知の世界が見えてくる、創造の喜びがある楽しい日々でした。掃除や洗濯は、それ自体創造の喜びがあるわけではないけれど、人が生きていく上に必要なことだから、習慣として身に付きました。

 小樽に来た初めの頃は、彼女の新しい記憶が無くなっていくという状態にだけ対応すれば良かったので、音楽会や美術館に行ったり、旅行したり、近郊の山にも登ったりで、楽しい日々でした。もちろん、家事能力はほとんど失っていたので、私がやりました。こんな安定した日が続くのなら、いうことはないと思った日々でしたが、やがてピアノが弾けなくなり、絵が描けなくなり、字を読んだり書いたりも全くできなくなりました。当時通っていた神経内科クリニックで、作業療法でやっていた刺し子の縫い目が、2ヶ月くらいの間にひどく乱れたものになりました。もともと縫い物が得意で、ミシンを買う前の数年間は、子どもの着る物も、音楽教師の忙しい時間の間に手縫いでやっていました。本にも載せた鉛筆画の私のポートレートは96年の2月で、彼女が描いた画の最後になりました。

 東京時代から続いた安定期が長く、このままずっと続くのかとさえ思いましたが、やはりこの病気は教科書通り進行するものだと、後に実感しました。最後に残ったのは歌うことでした。字も楽譜も読めなくなった彼女が、ひたすら歌い続けました。雨の日も雪の日も、毎日1時間4キロぐらいの山坂の道を歌いがら一緒に歩き続けました。私の音程が少しでもずれると、「その音違うよ」と直されました。当時家の中で、ビデオカメラを三脚につけたまま撮った映像があります。98年の11月ですから、あれからまる5年たちます。「音楽の記憶は、右脳のもっとも侵されにくい部分に存在するものと思われる」という、10年も前の『ナショナルジオグラフィック』の記事を思い出します。
 そのあと私が経験したのは、混乱期の彼女と一緒に過ごして、「眠る時間がない」という物理的な状況でした。 在宅介護支援センターのソーシャルワーカーの、「共倒れしたら、元も子もないですから」という勧めで、週末ショートステイやデイサービスを利用するようになり、4年前には特別養護老人ホームに入所するという選択をせざるを得なくなりました。そのことは当時の介護日記に書きました。
 訪ねてくれた横浜の学友が書いたように、私の介護の様子が“嬉しそうですら”あったというのは、病気が進んで寝たきり同然にはなったけれど、彼女が3年半ぶりに私の元に戻ってきたのだから、嬉しくない筈はないからなのでしょう。身体障害者1級ではあるけれど、本物の寝たきりになってしまわないように、週3回PT(理学療法士)の派遣を受けてリハビリも続けています。

 月〜金は朝晩の2食、週末は3食のミキサー食です。既製品は使わないので、栄養バランスを考えながら何品か用意してミキサーにかけます。以前彼女が在宅時代の日記に書いたように、1日30品になるように心がけています。ミキサーでは、煮たり焼いたりした魚の肉を細かくする事が大変でしたが、親切な方から「誕生日には少し早いのですが」とミルサーのプレゼントがありました。 ミルサーはミキサーより粉砕力が格段に強いので、焼き魚など粉砕しにくい食材の時重宝しています。秋になって新鮮なサンマ・イカなどが店頭に出ています。サンマのお刺身やイカ刺しを何度も食べました。生の魚はミキサーにかけると乳化して流動状態になることも知りました。体内に入っている胃瘻の入り口はボタンになっています。そこに外部のチューブを接続して、ミキサー食を太い60ccの注射器で入れます。接続するボタン部分の内径が3.5ミリ程度なので、よほど細かく粉砕しないと入り口で詰まってしまいます。

 大腿部から上は以前にくらべて痩せてはいないけれど、歩かなくなって久しいので、大腿下部から脚部にかけては、すっかり筋肉が落ちました。PTに「最初の目標は」と問われて、「短時間でも立てること」と答えたのですが、その実現はまだ先のようです。それでも手足の硬直が少しずつ取れて、車椅子や自動車への移乗がずいぶん楽になりました。体重がなかなか元に戻らないので、毎日1回夜間の就寝時にメーカーの補助栄養剤を点滴で胃瘻から入れています。嚥下リハビリはナースが根気よくやってくれていますが、なかなか口から物を入れるまでにはなりません。アメリカの学者が書いた専門書も見せてもらいましたが、治療水準が国際的にも手探りの状態らしいのです。脳の細胞の役割分担もそうですが、ほとんど判っていない、いや、判らないことがはっきりしてきたという水準のようです。

 ともあれ和子は、血色もよく、元気です。昼間は基本的に車椅子で生活しています。血液検査の結果も問題はありません。「中期症状、最低5年前から発症しているはず」と東京の病院で言われて満11年です。あれこれ思いあたることがあり、多分彼女は20年選手です。教科書や家族が書いた記録の本を読むと、若年性は進行が速く、平均余命10年とか7年とか書いてあります。大部分は感染症で亡くなっているようです。幸い生活習慣病の気配もなく、気を付けて長生きしてもらわなければ、と心がけています。ストレスらしいものが無くなったせいか、私は胸のアタックが全くありません。運動不足にはなるので、エレベーターの上りは使いません。ここは3階ですが、昼食や用事で9階の診療所に行くときは、外の非常階段を駆け上がる様にしています。静止型狭心症なので、運動は問題がないのです。

 今の社会状況のことを、「日本全体が溶融しているようだ」と誰かが書いていました。本当にそんな感じがします。書きたいことは山ほどあるけれど、今回はこれで。

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