2000年8月15日 

  “戦争の世紀”の最後の8月に

 今年は北海道も残暑が残り、30度近い日が続きます。でも私も和子も本州育ちなので、そんなに応えません。和子は元気です。
そして私の心臓は、暑い季節は安心なのです。

 和子は随分歩けるようになりました。この頃はダム湖の駐車場から湖畔に降りる遊歩道のスロープを、毎日数百歩も歩きます。
 もちろん失認識状態なので、手を引いて足元を注意しなければ、いつ転ぶかわかりません。それでも車椅子の頃に比べて脛は見違えるほど太くなりました。
 ケアプランにリハビリを入れてもらわなければ、危うく彼女は2度と歩けなくなるところでした。いつか書いた「緩慢な退行現象」どころでなく、「急激な退行現象」でした。
 たった1年前の入所まで、和子はこのマンションの周辺の坂道を普通に歩いていたのですから。

 笑顔はいっぱいあるし、表情も豊かだけれど、病気はずいぶん進みました。介護の現場で使われる言葉のADL(Activities of Daily Living :日常生活動作)と言われる領域で、彼女が自力でできることは殆どありません。
 でも毎日1時間余り一緒に過ごして、ADLの領域に感情や精神領域も含めれば、まだ彼女の中に生きている部分が十分残っていると私は感じます。
 医者や医学者の中には、平気で「人格崩壊」などと言ったり書いたりする人が多いけれど、私は彼女の人格が崩壊したなどと考えたことは一度もありません。大変な時期がずいぶん続いたけれど、祈る思いで回復を待ちながら寄り添いました。今でも私の言葉はごく一部は通じます。あとは目と表情を見て、意志疎通はできます。
 教師時代、私の話が通じない生徒にいらだって、それを生徒のせいにしたことが随分あったことを思い出して、忸怩たる思いがあるけれど、同じ事なんだなあと、いま改めて思います。
 「この病気の1年は、自然老化の5年に相当する」と書いてある教科書を何冊も読みました。和子が15年前49歳頃に発病したらしいことを考えると、49歳+15年×5・・などと考えると、気が遠くなりそうです。でも実年齢より逆にずっと若く見えると和子は言われているから、「教科書は教科書でしかない」と思うことにしています。

“戦争の世紀”と言われる20世紀の最後の8月です。戦争が終わって55年、56回目の夏です。

 「定年になったら伊豆に山荘を建てて、2人でゆっくり・・」と思っていました。でも、ただのんびりするのではなく、忙しい間できなかった、2人が生きてきた道を改めて問い直すという仕事をするつもりでした。私は高校生を相手にして、彼らの先輩として私の貧しい体験を提示して、「生きること」を問うてきたつもりでした。
 20年以上前に彼女が買って読んでいた1册の本があります。歴史家の色川大吉が書いた『ある昭和史の試み』という本です。その中で彼は、「個人史をその時代の歴史に重ね合わせる」という意味のことを書いています。
 私のように思春期の生徒と関わり合い、そして学校図書館で生徒の「本との出会い」にも関わり合えたのと比べて、和子は私との結婚後は、ほとんど音楽教室の子ども相手の仕事でした。だから仕事上で、多分そういう直接の場を持てなかっただろうと思います。
 和子は「音楽が人に生きる励ましを与える」という、固い信念を持っていました。そのことを、知り合った頃私への手紙に書いていました。それだけに、自身の生きてきた道への問いかけは深かったのかも知れないと、今思います。
 でも病気になって、そんな共同でやる作業は不可能になりました。それを彼女の分まで一人でやらなければならない重さに耐えられないと感じながら、8月がやってくる度にこうして考え、書いています。

 まだ今世紀は数ヶ月残っているけれど、治療法の無い病気と闘いながら懸命に生きている和子を見ていると、地球上から戦争が無くなって欲しいと痛切に思います。
 ナチスや日本軍国主義の時代だったら、彼女のような「世の中の役に立たない」存在は、とっくに抹殺されていただろうと思うからです。55年前の私の僅か15歳の体験ですが、そんなことが決して絵空事ではないと実感します。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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