2000年7月24日 

 

 梅雨前線が北上して、北海道も梅雨らしい日が続いています。道東は暑いようだけれど、このあたりは25度ぐらいですから、しのぎ易いのですが。

 この1ヶ月好天が続いたので、和子を車に乗せてダム湖に毎日通いました。今までの車は床が高くて和子は乗れなくなったので、この2月に車を買い換えました。助手席を高齢者仕様のオプションに取り替えて90度回転できます。歩道の高さからなら和子が乗れるようになりました。
 リハビリの効果が出て、この頃は玄関から車まで歩いて車に乗り、ダム湖の駐車場でも車から降りて少しは歩けます。私がずっと慢性腰痛なので、和子を抱きかかえて車に乗せることは出来ません。
 和子は2ヶ月も車椅子に座ったきりだったので、この回復ぶりは夢のようです。どんなに病気が進んでも、やはり回復したいという本人の生命力があるのだと実感します。 

  

 12月にスタッフに手伝ってもらって、ホームの特別浴室で私が和子の髪を染めました。
 その翌日介護のチーフから、「次回からは勤務のスタッフを当てます」と言われました。でも2月頃から和子の状態が不安定で延び延びになっていました。
 その後彼女の状態が良くなって4月中旬実施する予定だったのですが、直前になって特別浴室の利用にクレームがついて、ホームでのヘアダイができなくなりました。特別浴室をヘアダイに使うのが「本来の使用目的に反する」という説明でした。
 

  

 6月初め、和子を近くの美容室に連れていってヘアダイをしました。毎月ホームにヘアカットのボランティアで来ていらっしゃる美容師さんで、和子も以前からカットをしてもらっていました。
 事前にお願いに行って、美容室から他のお客様がお帰りになる時間帯で実施日を決めてもらいました。当日は札幌の教え子を頼んで、和子を美容室に連れて行きました。
 その頃はまだ車の乗り降りは出来なかったし、美容室の入り口は少し段差があります。
 物理的な問題は何とかクリアーできたけれど、美容師さんが心配されたのはヘアダイにかかる1時間半の間、和子が安定していられるかということでした。うまくいくかどうか心許なかったけれど、何とかお願いしました。結果は案じた程のこともなく、和子は上機嫌のまま無事にヘアダイを済ませて、見違えるほど若くなりました。

   

 6月中旬、インターハイの全道登山大会に誘われて斜里岳に登りました。全道から集まった精鋭の高校生達の後を、そんなに遅れないで山頂に立つことが出来ました。好天でしたが、さいはての山知床連峰は雲の下でした。
 斜里の町は、41年前22歳の和子が高校教師として初めて自立の途を歩き出した土地です。その海岸から十数キロのところに、標高1500メートル余りの独立峰斜里岳がその秀麗な姿を見せています。朝夕彼女が仰ぎ見て暮らしたというその山に、いつか一緒に登ろうと話していたのが実現せず、私だけで山頂に立ちました。

 和子の病気が判ったあとも、東京の2年間と小樽に来てからの2年間は和子と一緒に近くの低山を随分歩きました。病気が進行してからはそれもできなくなり、私だけ誘われれば山に出かけます。登山歴50年以上だけれど、事故のリスクもあるので単独行はやめました。
 「山に登れる体力がある間は介護を続けられる」と自分に言い聞かせて今も登り続けています。

 「バッハは神様です」と彼女は出会った頃言っていました。
ハープシコード奏者ワンダ・ランドフスカヤが1949年に録音したバッハの『平均率クラヴィア曲集』のカートンボックス2箱に入った6枚のLPレコードを、彼女は宝物のようにして持っていました。
 いま私の手許に、長い間彼女がピアノで弾き込んだバッハの『平均率』や『イギリス組曲』『フランス組曲』などの楽譜があります。声楽専攻だった彼女には、バッハの鍵盤の曲は限りなく高い山の頂きだったのかも知れません。
 彼女に出会う前、ベートーベン・モーツアルト・シューベルト・シューマンなど、あれこれ聴いていた私には、緻密で強固に構築され、そして限りなく深いバッハの世界はまだ遠い存在でした。管弦楽組曲やブランデルブルク協奏曲などを知っていた程度でした。

 40年前、30センチLPが1枚2000円もした時代でした。私も彼女も食べるものを削ってLPレコードを買っていたのを思い出します。

  

 バッハの生誕300年記念の年1985年は、私は室蘭に単身赴任中でした。その前の年、和子は「ねえ、バッハの年に札幌に戻れないかしら」と言いました。でも転勤して2年しか経っていなくて戻ることはできず、3年後に定年より3年早く退職しました。そんな弱音を吐く和子ではなかった筈だと、私が思っていたフシがあります。
 後から思えばその頃が推定発病時期で、音楽教室の子ども達に教える仕事をしながら、自分の記憶が定かでなくなっていく不安を和子が一人で耐えていたのだと思うと、そのとき戻ってやれなかった迂闊さに、ほぞをかむ思いをしました。
 この年はブーニンがショパンコンクールで華々しくデビューした年でした。

  

 今年はバッハ没後250年です。5年前、小学館からバッハ全集の刊行が始まりました。4年がかりで完結する予定のCDの全集でした。「神様の全集を買おうか」と話したら「うん、買おう」と彼女は目を輝かせました。3ヶ月毎の発売の度にお金を払うやり方だと、もし彼女の病気が進んで聴けなくなったらギヴアップするかも知れないと怖れて、全巻35万円を一括払いしました。
 もう美術館を見に外国に行くこともほぼ不可能になった彼女への、ささやかなプレゼントのつもりでした。 全集は去年完結しました。その間に彼女の病気はずいぶん進み、今はクラシック音楽から隔絶された世界のホームにいます。
 対位法や平均率やフーガや、バッハが構築した音楽の世界を彼女に教えて貰うすべもなく、私は毎日ひたすらひとりでバッハを聴き続けています。
 いま私にできることは、彼女にクラシック音楽の出前をすることだけです。今週は毎日NHKのFM放送で、「バッハ没後250年、命日に向けて」という特集が組まれています。7月28日はバッハの命日です。

 晴れた日はホームの玄関からきれいな夕焼けが見えます。もうしばらく、束の間の夏を楽しもうと思っています。

 まもなく、また8月15日がやってきます。