1) 私たちもニックネーム命名の名人だった 《岡部伸雄》
「チュー太のホームページ」の題名に接しなるほどと感心した。まさに後藤先生だ。 実は私たち浦高卒36年組は「すずめ先生」という愛称をつけていた。先生は知っていたかどうか、今も聞いたことはないが、クラス仲間同士話をするときはそう呼んでいた。
当時先生は、丸いめがね(ロイドめがね)をかけていたような気がする。
小柄で口をとがらしてよく私たちに話しかけてこられた。
帽子をかぶったまま廊下を歩いている悪童を見つけると「こらっ!」と飛び上がって取り上げた。先生より遙かに大きい生徒も、周りのみんなもその嫌みのない愛嬌に笑って従順に従った。 「しょったろう」「青菜の菜っぱ」などほかの先生も命名されたが、後藤先生のそれは、一番ぴったり(?)で一番最初につけられたのではと今でも思っている。誰がつけたのかは今では記憶にない。
先生は、いろいろな学校に赴任されたが、いろいろなニックネームをつけられているに違いない。 それらは生徒たちの親しみと尊敬を込めたもので、もしかしたら先生の生徒たちにとけ込む特技なのかもしれない、と思っている。
学舎を終えて38年経た今も記憶鮮やかすずめ先生
2) 先生みんなの前で訂正して!! 《尾方竜起》
初めまして、西高33期の尾方と申します。 西高在学中は図書局に所属してました。それが縁で今でも先生とお付き合いさせていただいてます。 また、現在(?)の妻も同期で図書局員ということで、結婚式には先生にも出席していただき、スピーチもしていただきました。自称、正統派局内結婚です。
札幌在住ということもあって、夫婦で去年まで7年間図書局OB会の幹事をつとめてきました。 年一度のOB会では当然先生にもご挨拶いただくのですが、僕ら幹事を紹介するのに「二人で仲良く物理の追々々試を受けてた」というエピソードを付け加えます。 しかし、そこには重大な事実誤認がありまして、追々々試まで受けてたのは妻の方で、私は追試で切り抜けているのです。先生には去年抗議したのですが、いまだに公の場で訂正していただいてません。ということを思い出しました。
3) 後藤家憲法とは 《よしの みちこ》
よく授業の雑談の中で、(こちらのほうが、よく記憶に残っています) 覚えていること。
*正義感ちらり 公立高校と大学受験予備校とのつながりをひどく憤っていました。
*どっちの味方? だれかの喫煙が学校にばれたとき、「見つかるようなことをするな」
*赤点推奨派? いつも赤点ぎりぎりだった私に、「ぎりぎりセーフを喜ばないで赤点とって追試を受けろ」
*後藤家憲法 大人と子供の役割分担を決めて、子供の年齢に応じたお手伝い(冬の朝の雪かき当番、食器の片付け、掃除)をさせ、自分のことは自分でやるなど、いろんな憲法がありました。
偏差値受験全盛期で育った私達は、勉強さえしてれば許された家庭環境にいたものが多かったので、先生の話がみょうに新鮮に感じ、クラスメートの中には、チュー太の家は「現代のたこ部屋」と表現するものもいて、先生の失笑を買っていました。
またあるときは、下のお子さんがソファーの角で怪我をしたと、教室に入ってくるなり本当に泡を食った様子を話されていました。
今でこそ、家庭の中まで男女平等が浸透しつつありますが、当時は、共稼ぎ家庭ということを差っ引いても、なかなかそこまで協力し合える家族はいなかったのではないでしょうか。 そのような家庭環境が今の和子さんへの自然な、それでいて愛情がこもった介護生活につながっているような気がしてなりません。
今は、介護とは縁の無い生活をしている人も、明日は我が身です。介護の必要な人が今後増えてくるだろう高齢化日本を踏まえて、我が家も、手始めに夫にこのホームページを読ませ、子供達(男の子二人)にも家事を仕込もうと決めました。
4) 訂正します 《後藤 治》
尾方竜起に!! 事実を確かめました。私も竜起も事実誤認で、竜起は追試、彼の妻(慶子)は追々試(追々々試ではなく)でした。 以上、みんなの前で訂正します。
ここで一言念のため付け加えると、私は赤点ギリギリよりも追試の方が、それよりも追々試の方が本人に不名誉だとは毛頭思っていません。 2年の物理は全員必修だったから、文系志望の生徒も受講させられます。 でも、文系だからといって甘くしたら、その方が本人には不名誉なことで、脂汗を流してでも自分でクリアさせるのがいいことだと、ずっと思ってきました。
5) 愚かさに気付きました 《小田島本有》
札幌西高26期の小田島本有です(実は大学の合唱団の後輩でもあるのです)。
私も2年の時、チュー太の物理を受けましたが、1点違いで追試に引っかからなかった記憶があります。その時は「助かった」と狂喜していましたが。
私も現在教師をしており、この立場になって分かるのですが、追試に引っかからない、留年しない、受験に失敗しない、というのが学生時代とても大きな意味を持つように思い込んでいた愚かさが今ごろになってよく分かります。
時にはその学生にしっかり自分を見つめてもらうためにも、厳しい状況におくことがかえって良い場合もあるのですね。
6) 馬に乗った後藤先生 《岡部伸雄》
ある日、私のそばへやってきた後藤先生はその小柄な肩をつんつんとくっつけてきて、めがねの奥の目をさらに細めて微笑みながら「おい! 親父にたのんで、俺を馬に乗せろ!」と言ってきた。 私の親は、浦河の奥にある農林省の牧場で働く、アメリカ的にいえばカウボーイであったが、そのことを知ったらしい。 親父は二つ返事で了承した。 多分先生の友達と二人で来たと記憶している。 用意された馬に早速またがったが馬は少しも動かない。 訓練された馬は、経験のない人が乗ったらわかるらしく動かないのだ。ましてあぶみに届くか届かないかの先生ではなおさらである。 それでも1時間ほどすると、馬は動き、速歩さえできた。 馬から下りた後藤先生は「ああすっきりした」と晴れ晴れとした顔をしていたが、私はおかしかった。 というのも、初めて乗ったときは馬の走りにリズムを合わせることができず、走るたびに固い鞍に尻を打ち付け、はらわたがでんぐりかえるのである。
颯爽と鞍にまたがりはやせども動かぬ馬に戸惑うチュー太
7) 現像用具のある下宿 《岡部伸雄》
当時、後藤先生の下宿は、浦河高校のすぐ近くにあった。 ある日「放課後俺の下宿にこい」ということだったので、何だろうと思ってたずねると、「これをやるよ」と一枚の写真を手渡された。「今プリントしたばかりだ」という。 なんと先生の部屋にはカメラの現像用具一式があった。当時としては最先端のマルチメディアである。 写真は、修学旅行のとき京都の鴨川で写したという女子先輩のポートレートだった。先生は、彼女が卒業していたので、寂しそうにしていた私を慰めようとしたのかもしれない。写真はパス入れの中に収まった。
一枚の写真に踊る我が心 慰めくれし後藤先生
<お世話人>注
この写真の方が岡部さんの奥様だと、先生から伺いました。
8) 図書局
と「シベリア街道」 《南高17期岡克己》
1年の終わり頃、当時担任だった真田幸村にそそのかされて、発足が決まったばかりの図書局というものに参加しました。 なぜか自動的に局長と呼ばれ、何にも知らずに泥沼に入りました。 その、まがまがしき沼の主が”チュー”だったのです。とうじは雪も吹き込む木造校舎と、できかけている新校舎が共存していました。
しかしその片隅にあった当時の図書館は・・!!!絶句 なんと、明治の息吹を伝える由緒正しき姿で存在していたのです。 まさにカンブリア紀の遺跡を見る思いでした。そこには数十年の歳月、誇り高き心を支え(本当に埃だらけ)さわれば落ちなん風情の和紙の本たちが鎮座ましましておりました。 春休み返上で、その誇り(埃)を新校舎の図書館に運び続けました。このときの新−旧校舎間の渡り廊下のことを「シベリア街道」と名付けたのは当時の私たちでした。 ふと見た同窓会誌にこの単語が載っていて、とても懐かしい思いでした。
9) 同意と同情と 《南高17期岡克己》
尾方さん(御夫婦)のお気持ちしみじみ理解できました。 チュー太が物申すときの、あの言い方は、意外にききますよね。 ちょっと度のきついめがねで、ちょっとずらした目線で、(あえていうと、やや、歯をつっぱらかして)「どうせなら赤点で、追試受ければ!!」きっと、あれも愛情の表現なのでしょう。 私は、実は図書局員としてしか接してはいませんが、なんども同様のせりふを聞きました。南も北もないんですね、もとえ、南でも西でもやっぱりチューだったのですね。 おつかれさまでした!
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